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秋の花火大会

疲れているから行きたくない!とごねていたのに

ドンと一発目が鳴ったらもうくぎ付けになって

「わぁ!」と駆け出していく子供。

慌てて追いかける大人たちも

漆黒の空に上がった遠い花火につい目を奪われてしまう。


9月も後半だし夜は寒いだろうと

羽織るものを持ってきた。

だけど、海独特の包まれるようなほわっとした湿度のせいか

金曜の夜に集まった老若男女の熱気なのか

走ると汗ばむくらいだった。

花火を海岸で見るのは10年ぶりだ。

近いのに人混みに出ていく気力がなく、いつも音だけ聴いていた。

ドォォン

おぉ~

パラパラパラ

あぁ…

叫び声に近い歓声と、低い建物の谷間から覗く大輪の花の端っこが

ここ最近の私の花火大会だった。

今年は久しぶりに、花火の下の方まで見たくなり

意を決して夜の海辺までやってきたのだ。

場所取りに怖じ気づいて有料のシートを購入。

待ち合わせをしていた妹家族に合流し、

ビニールシートに腰を下ろしてまっすぐ前を見る。

沖には何艘かの船の影が連なり、

ゆらめきながら花火を打ち上げている。

大きめの数発が立て続けにあがり、観客がどよめいた。

船の上の人たちにもこの歓声や拍手は届くのだろうか。


花火は美しい。

次から次へと龍のように高くのぼっては

パッと咲き、何もなかったように惜しみなく消える。

けれどそれと同じくらい、

明るく照らされた人々の顔を見るのが好きだ。

みんな上を向いて白い歯をのぞかせて笑っている。

騒いでいた子も

お酒を飲みながら冗談を言い合っていた大人も

もたれ合うふたりも

みんな、幸せそうに見える大好きな瞬間だ。

いつも迷ってしまうのだ。

花火を見ようか、隣の顔を盗み見ようか。

たまにばれて「ちゃんと花火を見なよ」

と怒られることもある。


私は物覚えはいい方ではないのだが、

学生の頃に読んだ芥川龍之介の「舞踏会」の一節を思い出す。

「私は花火の事を考へてゐたのです。我々の生(ヴイ)のやうな花火の事を。」

子供の頃から何度も何度も見て、

いつも隣には誰かがいた。

ピクニック気分でキャアキャア言いながらだったり

ロマンチックに浸りすぎて盗み見の時間が多くなったり、

人生の分岐点の前日で息抜きに来ていたり、

どれも鮮やかに思い出せるのに

もう全部、遠く過ぎ去った日のことだ。


だから今日のこんなに美しい花火も

大切な人のいちばんきれいな顔も

わぁと漏れた名も知らない人達の歓声も

すぐに遠い日のことになる。

その事実が震えるくらい悲しいし、怖い。

隣の人の顔は覗けるのに自分の顔は自分では見られない。

私はいま、どんな顔をしているんだろう。

花火はフィナーレを迎え、

夜空を埋めつくさんばかりの勢いで咲き誇っている。

ほとんど悲鳴のような歓喜の声。

おわらないで、おわらないで、おわらないで。


交通整理などされながら家にゆっくりと歩いているうちに

日常に引き戻されて、だんだんといつもの感覚が体に馴染んでいくのがわかる。

よく知った私の体と感情。

良い意味で鈍感になっていき、

大切な日々は続いているのだと安心する。

私にとって花火大会は

一年に一度、生きているこの瞬間の美しさを突きつけてくる刃のようにも思えるのだ。








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