見出し画像

スシ・ソバの無念(ネオサイタマの丸かじり)

スシ・ソバは無念を抱えた食べ物である。このことに気づいている人間は少ない。

スシ、そしてソバ。この二つは日本人に馴染み深く、長く愛されてきた伝統的料理であり、両者ともに甲乙付けがたい実力を持っている。スシはもちろん、ソバもオーガニック、高級志向をこだわればキリが無い。スシとソバはいわば日本料理を代表する両巨頭、どこに出ても拍手喝采で出迎えられるトップスターと言える。

だが、このトップスターが一つの器で一緒に出てくると、途端に拍手は止み、そこかしこからブーイングが上がってくる。

スシ・ソバの起源は定かになっていないが、「スシもソバも両方食べたいが時間が無い」と言うサラリマンや労働者の欲求にイタマエが答えた結果生み出されたものだと言われている。要するにスシ・ソバはファストフードであり、そして同時にジャンクフードなのだ。

スシ・ソバを出す店は基本的に屋台もしくは安価な大衆店であり、食べるのは時間に余裕の無いサラリマンや労働者だ。カチグミやメガコーポ役員が利用する高級店では決してスシ・ソバを出さない。出せば品位を疑われるからだ。なぜそうなるかという理由は、屋台に入ってスシ・ソバを食べてみればすぐにわかる。

薄汚いノーレンを手でかきわけ、ソバ茹で機から吐き出される水蒸気で顔もロクに見えないイタマエに向かって「スシ・ソバ」とオーダーを通すと、白い蒸気の向こうから「アイヨ」と返事が返ってくる(こない場合が多い)。

イタマエはあらかじめ茹でたソバの入っているドンブリに、合成カツオ・エキスがプンと香り立つ熱いスープを注ぐ。その上に刻んだバイオネギをパラパラと散らし、最後に冷蔵ケースからマグロ・スシを2ピース取り出してドンブリの中央に乗せ、「ヘイオマチ」と言って(言わないことが多い)ドンと客の目の前に置く。

ドンブリを手で引き寄せ、スシ・ソバの全容をよく観察してみよう。ソバとスープの上に浮かぶマグロ・スシはいかにも不安げだ。本来ならば皿やスシ・ゲタという安定した足場に乗せられるはずであったのに、どういうわけかソバの上に乗っている。

世が世ならば今頃は回転スシ・バーできらびやかな皿に乗ってレーンをクルクルと回り、さもなくばカウンター式スシ・バーでスシゲタの上にどっしりと構えていたはずだ。だが何としたことか、マグロ・スシに与えられたのは足場とも呼べぬタールめいて黒いスープだ。

マグロ・スシの不安やいかばかりか。誰か一人でも、ソバの上に乗せられるスシの気持ちになって考えるイタマエはいなかったのか。スシのことを思いやれる人間はネオサイタマにはいないのか。社会の歪みか。政権交代が必要なのか。

暗澹たる気持ちでワリバシを繰り出す。いきなりスシを食べる人はあまりいない。「いずれ折りを見て」「頃合を見計らって」と考え、まずは無難にドンブリ手前あたりのソバをかきよせて一口すする。

すると、ドンブリ内のソバとスープの動きにより、スシが傾いてスープの中に落ちかかろうとする。かくてはならじと急いでハシを派遣して、比較的ソバが盛り上がっている地帯に避難させる。これで当面は安全だ。

「ヤレヤレ」なんて言ってまた一口すする。そうするとまたスシが水没しようとする。急いでハシを派遣させ、また移動させる。なにしろ不安定な足場なのでほんの少しのショックでスシはスープに落ち込もうとするので目が離せない。だからスシ・ソバの食べ始めはまこと忙しいものになりがちだ。

そうこうしている内に、スープはどんどんコメに浸透してくる。トッピング用のスシは固めに握っており、中にはバッテラ並に握ってある店もあるが、どんなに固く握ってもコメはコメだ。液体であるスープの侵食を食い止めることはできない。そしてスープに侵された箇所はゆるゆると潤びはじめ、ポロポロとコメが崩落を始める。

マグロ・スシの恐怖は想像するに忍びない。謎の液体がゆっくりと、しかし確実に自分の体を蝕んでいき、やがてボロボロと崩壊していく。心ある人間ならば決してスシにこのような仕打ちはできないはずだ。このような料理が存在することが許されていいのか。ネオサイタマの人間には一片の良心も無いのか。やはり政権交代なのか。

やがて、おお、見よ。もはやそこにあるのはスシですらない。スープの上に浮かぶぐったりと湯あたりしたマグロサシミと、崩落してドンブリの底に沈んだコメだ。中には崩落途中にソバにすがりつくことで沈没を免れたコメもおり、その必死さは見るものをして顔を背けさせるアワレさである。

これを見て涙しない者はいまい。別皿で出されればスシとして胸を張って食べられていったマグロ・スシが、ソバの上に乗せられたばかりに生煮えのマグロサシミと崩れたコメという無惨な末路を晒すことになってしまったのである。これがスシ・ソバが決して高級店では出てこず、マケグミの貪るジャンクフード扱いされる最大の理由だ。見栄えが全く良くないのである。

スシ・ソバのドンブリから上がっているのは湯気ではない。ソバの上に乗せられたばかりにスシとしての本分を全うできなかったスシの無念が、ノロイ・オーラとなって立ち上っているのだ。

ノロイに慄きながらスープを一口。熱せられたことでマグロからダシが染み出し、スープに絶妙なウマミを与えている。うまい。

半煮えのマグロそのものをかじってみれば、熱で引き締められた身は心地良い反発を歯に返す。生よりも味が濃くなっており、この濃い味がこれまた安いソバ・スープの濃い味と不思議に合う。うまい。

ソバをすすると、そこかしこにコメが絡みついて一緒に口の中に飛び込んでくる。安い屋台の柔らかいソバとすっかりふやけたコメが口中で渾然一体となり、そして時々マグロの味が顔を出す。マグロ部分に触れていたコメに染み込んだウマミ・エキスだ。これを探り当てた時の嬉しさはちょっと乙なものである。うまい。やはりスシ・ソバはいいものだ。

無念はどうしたのか。

スシ・ソバの味とは、実はスシの無念が生み出しているものなのである。スシがスシとして在ることができなかったその無念さやノロイを味わいながら食べるものなのだ。我々はスシの尊厳を破壊することで快楽を得、そして食欲をも満たしているのである。

ソバをすすり、スープを飲み、マグロをかじることを繰り返していく。やがてドンブリの底に残るのは、僅かなスープに浸ったソバのかけら、ネギの切れ端、マグロの破片、そしてスープのウマミを全身に吸い込んでふやけきったコメだ。

ここに到達した人は皆一様に顔をニンマリとさせ、「デワ、デワ」と言わんばかりにドンブリを両手で高く差し上げる。そしてナナメに傾けて残留物を一気に口に流し込むのだ。

もはやスシともソバとも呼べぬ食べ物の残骸が、ドゥルドゥルと勢い良く口内を駆け抜け、喉に、胃に落ちていく。熱く、濃く、うまい。スシをスシのまま食べていては決して味わえなかった悦楽だ。スシの無念が生み出した味わいである。

すべてを飲み干し、ドンブリをカウンターに勢い良く置く。続いてトークンを叩きつけ、ヨージをくわえ、ノーレンをサッとかきわけて店を出る。「アー」なんて言って息を吐き、膨れた腹をポンポンと叩くと、顔を引き締めて足早に歩き始める。マグロ・スシの無念をも栄養にして、ネオサイタマのサラリマンや労働者は午後の仕事へと赴くのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?