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思考停止、イクラ・ドンブリ(ネオサイタマの丸かじり)

 連日の激務、セッタイ、違法残業、徹夜でカロウシ寸前。ほんの僅かな休憩時間、ようやくカイシャから一時解放されたサラリマンは、フラフラとゾンビーめいた足取りで街へと歩いていく。

 死んだマグロめいた目、半開きになった口。がっくりと落とした肩に、力なく揺れる腕。疲労の極みに達した彼らは足取りのみならず全身が実際ゾンビーに近く、業務とストレスに酷使されきったニューロンは擦り切れて、思考という行為そのものを半ば放棄してしまっている。

 何もしたくない、何も考えたくない、目の前にフートンが敷かれていたらそのまま倒れこんでしまおう……でもそれはそれとしてハラ空いたナ。なんか食いたいナ。

 人間の体は正直なもので、こんな時でもハラは減る。だがしかし、こんな状態で食欲を満たそうとするのは、相当な困難が伴ってしまうものだ。

 例えば、無人スシ・バーで食事をすると考えてみよう。まずは席に座り、財布から百円玉を取り出し、コイン投入スリットに入れる。その後にオーダーを通し、出てきたスシにショーユをかけて口に運ぶ。基本的にはこれの繰り返しが、無人スシ・バーにおける食事ということになる。普段ならどうということもないというか、少なくとも平均的なネオサイタマの一般市民であれば何の苦労もせずに食事を終えられるはずだ。

 だが、疲弊しきったサラリマンには、この一連の作業が恐るべき難事業と化すのである。

 まず、財布を取り出す時点で躓く。上着の内ポケットをまさぐり、ここには無いからズボンの尻ポケットを叩くがそこにもなく、はてもしや紛失かとやや青ざめながらカバンをかき回すもやはり無く、ド、ド、ドウシヨウ、どこで落としたかな、拾われてカード類を悪用されて事件に巻き込まれたりして、などとハゲシク動揺し、借金、解雇、破産、離婚、路上ダンボール生活などの破滅的文言で頭がいっぱいになったところで、着席時カウンター上に無意識で置いておいた財布に気がつく。

 ホッと一息つき、ヤレヤレなんて言いながら財布から百円玉を取り出そうとするも、タイピング作業で酷使されきった指は震え、一枚のコインをつまみだすという精密作業は難航する。老朽マニピュレータを騙し騙し操作する作業員めいて四苦八苦することしばし、やっと百円玉を取り出せたと思いきや、勢いあまって他のトークンも財布から飛び出し、チャリンチャリンと不景気な音を立てて汚い床に散乱し、他の客から一斉にジロリと睨まれ、羞恥に耐え切れずそのまま店を出て、スシが食えなかったどころか小銭を失うハメになってしまう。

 これは極端な例だが、例え百円玉の投入に成功したとしても、「何のスシを食べるか」という思考そのものが、極限状態のニューロンには大いなる負担になる。スシに限った話でなく、屋台のソバでもドンブリ・ポンでもこれは同じだ。「何でもいいんだ、どうせ今は味なんてよくわかんないんだ、出されたものでハラが膨れればそれでいいんだ」と自分に言い聞かせても、その一方で「何を食べたらいいか」と考えようとしてしまい、だがその思考に割くためのエネルギーはすでに使い果たしている。

 仮にその決断に成功しても、今度はハシを使って口に運ぶ、ショーユをかけるなどの難関が待ち受けている。手元が狂って隣のヤクザのスーツにショーユをかけてしまう、などといった悲劇もありえないことではない。普段は気づきもしないが、食事という一連の作業は、その決断から実行に至るまでの過程で、ともすれば摂取カロリーに匹敵するほどのエネルギーを消費する大仕事なのである。

 ハラは減っている。何か食べたい。しかし「何を食べたらいいか」という思考、選択、決断にかかる気力と体力が残っていない……ああ、何も考えずに食事ができたらナ、でも安い店でそんなとこないよナ、と悲しみにくれながら街をゾンビー歩きしているサラリマンに、救いの糸を垂らすブッダに等しい合理化チェーン店が存在する。それが「半手動イクラ」だ。

 入店にはまず入り口の投入スリットにトークンを入れる必要がある。先述の通り難事業ではあるが、ここさえ乗り切れば後はラクなのでここは踏ん張りどころだ。幸い屋外なのでトークンを落としても睨まれることは無いからそこは安心してよい。

 最後の力を振り絞ってトークンの投入に成功すると、ドアが開いて入店できる。細長い店内を壁沿いににじり進み、硬い椅子に腰をおろそう。店内はカロウシ寸前のサラリマンや生きることに疲れた労働者から発せられる負のオーラに満ちており、ドンブリ・ポンの店内のような無軌道な若いエネルギーはカケラも無い。どうせ死ぬまでマケグミからは抜け出せぬという諦念が人々の皮膚から漏れ出し、疲弊しきった君をぬるま湯の如き温かさで癒してくれる。

 クローム風に塗装されたカウンターには、友好的な笑顔のマイクロ・マネキネコが一座席に一体ずつ飾られている。招く手がモーター駆動で縦に素早く動き、「ミャオーウー」という合成ウエルカムマネキネコ音声が発せられると、カウンターの向こう側でイタマエが君を一瞥する。「ハイヨロコンデー」と抑揚のない声で言い、やる気の無い手つきでドンブリにライスを入れ、投げて寄越すようにカウンターに置く(本当に放り投げる場合すらある)。

 雑に盛られたライスはデコボコで、ドンブリのフチのあちこちに米粒がへばりついているという有様だ。「給料安いかんな」「マトモな仕事なんかしないかんな」とイタマエの目が雄弁に語っている。この投げやりな仕事が、今の君にはかえってありがたい。これはイタマエや食材に対する敬意というコストを払う必要無く、思う存分雑に食べていい種類の食事なのだ。

 マネキネコの腹から生えた蛇口の下にドンブリを寄せると、再び「ミャオーウー」の声が発せられる。そしてマネキネコの目が光り、蛇口から合成イクラがドボドボと溢れてライスをケミカルな赤に彩りながら覆ってゆく。やがて一定量に達し、合成イクラの噴出が止まると、イクラ・ドンブリの完成というわけだ。

 魚貝由来タンパクとDHAから出来ている合成イクラは既にショーユで味付けされており、調味料をかける手間が無い。というより、この店にはそんなものはない。メニューもイクラ・ドンブリただ一つで、何を食べるかという選択そのものが無い。トッピングもサイドメニューも無いし、ライス大盛りも無ければイクラの追加も無い。ツケモノすら無い。あるのはイクラ・ドンブリ、そして無料で供されるチャだけだ。トークンを払った時点で、客である君がすることはイクラ・ドンブリをかき込み、チャを啜ることだけである。つまり、何も考えなくてよいのだ。

 君はうつろな目つきでスプーンを持つ。指先の精密動作を必要とされるハシと違い、スプーンは単調な動作で機能する。すくって、口に運ぶ。それだけだ。そこに思考は必要無い。例え途中でこぼしても咎めるものはいない。客もイタマエも、他人はおろか自分のことすら気にしていない。心地よい無関心が店全体にドンヨリと漂っている。

 イクラ・ドンブリを黙々と口に運び、咀嚼する。合成イクラのケミカルなウマミとショーユのしょっぱさを、何時間前に炊いたか知れないボソボソの(あるいはオジヤめいて柔らかい)ライスが受け止める。この、考えうる限り最低の組み合わせでも、「サカナ(魚卵ではあるが)」「ショーユ」「コメ」が揃ってしまうと、日本人はそれを本能でうまいと感じてしまう。ハックじみたやり口だと重々承知しながらも、やはり本能には逆らえないのだ。

 遺伝子に刻み込まれた、何よりも安心できる味。君は何も考えず、ただただ安心してショーユ味のイクラとライスをスプーンで口に運ぶという単純作業を繰り返す。ストレス無く胃袋にモノを送りこむ幸福がここにある。

 やがてスプーンがカツ、とドンブリの底を叩き、君はイクラ・ドンブリを食べ切ったことに気づく。出された時点ですでにぬるかった、色付きの湯とでも言うべき茶を啜り、「ゴチソーサン」と言うこと無く立ち上がり、店を出る。「アリガトゴザイマシタ」の見送りの声も無い。それに見合うコストを支払うような食事ではないからだ。

 イタマエに熱意無く、技術無く、敬意も無い。客は期待せず、思考せず、ただ家畜めいてエサをかき込むだけ。質の悪い食材に、サップーケイな店内。食べるという行為そのものを冒涜するような食事。だからこその安心が、幸福が、満足がある。これで救われる人間が、確かに存在するのだ。

 半手動イクラを出たサラリマンは、みな一様にストレスから解放された顔をして、ゾンビーからやや生き返った足取りで、再びカイシャへと向かうのである。


元ネタ:【ザ・ファンタスティック・モーグ】

参考:昼メシの丸かじり 「黙想のチキンライス」


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