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佐伯米子#09

1928年5月中旬。米子は前田寛治宛てに以下のような手紙を書いている。
「フランス人の看護婦が私の止めるのもきかず澤山の分量の注射をし過ぎました。中村さん(博士)のおっしゃるには一のものを十したそうです。その夜急にひどい抗糞(興奮)に陥つてあとはめちゃめちゃになりました。(中央美術・第14巻第10号"佐伯祐三"阪本勝)
祐三は自壊していった。
ヌーイイ・シュル・マルヌのセーヌ県立エブラール精神病院に入院したのは6月のことである。

1928年6月4日山田新一が病院を訪ねている。彼はこう書いた。
「僕は充分覚悟して病室に入ったのだが、扉を開けた瞬間「いけない」絶対的! そんな感じに襲われたのである。ひどくやつれている上に髭だらけで、落ち窪んだ眼窩がするどく一種死相とでもいうべき影が漂っていた。
彼の力なく白く痩せほそった二本の指を握って、僕はふたこと、みこと元気をつけるように話しかけたが、佐伯は多くを語らず南フランスへでも行って養生したいとだけ言った。そして隣室に僕は驚くほど山積みされた作品を見た。一体これは!何百枚なんだろうと身体のふるえの止まらないような感動に襲われた。」

そして1928年6月20日、自殺未遂を起こす。その経緯を山田は以下のように書く。
「アパートで寝ていたときクラマールへ脱出して、首をつって、助けられて、そのあとわれわれは閉口して入院させたんですが、それからあとというものは、絶対食べることを拒否」
1928年6月23日再度ヴィル・エヴラール精神病院へ入院。
「ある夜、もう真夜中であったが、僕と椎名氏とが、例の首吊り事件から戻されて、いずれは病院に運ばれる日の近かった佐伯の病室をそおっと覗くと、佐伯は小児のように眠るが如く眠らざるがごとくしていた両眼を、パッチリ開けて、手振り身振りで自分の寝台の近くに我々を呼び寄せた。……
 佐伯が言ったこの世における間違ったこととは、椎名氏も先に「彼はある女との関係を気にかけていたらしかった。」と書いていたひとつの恋愛であった。彼は実に気が違った者とは思えないぐらい整然たる口調で、そして心の底からこの世に遺してゆく懺悔の心をこめて、我々二人にしみじみと告白するのであった。」
「佐伯は、入院したその日から飲食一切を拒否しました。何を食えと言っても、何を飲めと言っても拒絶したんです。ブドウ糖の注射だけで一ヶ月もちこたえた。このことはどの本にもあまり書いてありませんけれど・・・。アパートで寝ていたときクラマールへ脱出して、首をつって、助けられて、そのあとわれわれは閉口して入院させたんですが、それからあとというものは、絶対食べることを拒否して、自殺したといえますね。」
祐三はさらに自壊して行ったのだ。
米子はそのわがままな自滅に付き合っていられなかった。祐三から伝染された結核とガス事故によって、娘弥智子の容態が悪化していたからだ。
米子は弥智子を連れてホテル・デ・グランゾンへ移った。このときの弥智子について山田は以下のように書く。
「目下弥智が結核喉頭炎の上に髄膜炎を併発して一両日中が危険であるから米子夫人勿論手紙書くことができず小生又多くを記することができない。」

その後の経緯は朝日晃の製作した年表を追ってみよう。
1928年8月13日 米子が見舞う。いつになく目を覚まし、米子の持ってきた果物を食べた。
1928年8月15日 看護人は夜通し泣き続ける佐伯祐三の姿を見た。
1928年8月16日 セーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院で死去。享年30歳。
1928年8月30日 娘弥智子も死去。

佐伯の死亡発見時は8月16日11時10分前。誰看取る者なく逝った。弥智子は結核喉頭炎と髄膜炎を併発し亡くなっている。
1955年9月号「夫人の友」に米子はこう書いている。
「一時に二つの大きな宝をうばわれて、私は危うく生きる力を失いそうになりました。すでにあのころ、何もわからなくなつておりました祐三が、不思議に、死を直感していたものか、メイゾン・ド・サンテに入院する間際に、私を呼びまして、ぼくの画を日本に持つて帰つてくれ、日本のみなさんによろしくと申したことがございます。その言葉が彼の亡きあとの私への仕事を教え、頼んで行つたのでした。親切なお友達の皆さんが、私を見守つていて下さつたことと、自分に言いのこされた言葉などが、私のくずおれそうな心身を、ようやく支えていたのでした」
1928年10月、佐伯米子は帰国した。
そしてそのまま下落合のアトリエに入った。
爾来彼女は44年間、そこで生きた。そして1972年11月13日午後1時50分、眼精腹膜炎のため東京・渋谷区山王病院で死去した。享年69歳だった

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました