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佐伯米子#06

佐伯夫婦の2回目のパリは昭和2年(1927)9月から始まる。1人娘弥智子を連れて二人はシベリア鉄道経由でパリへ戻った。米子24才、祐三25才の遅い夏だ。。
最初の逗留先は前回と同じホテル・デ・グランゾム(Hotel des Grands Hommes)にした。ほどなくして15区ラミラル・ルッサン通りのホテル・バックスに移った。
この辺りは前回のパリ23ヶ月のとき、精力的に写生に歩いた場所なので馴染み深い所だった。祐三はすぐさま新しい作品にかかった。
しかし体調は良くなかった。持病の結核が悪化すると共に鬱が酷くなっていたのだ。

母の強い希望でした帰国だったが、日本に祐三が心血注げる画材はなかった。洋行帰りの新進画家として、祐三は幾つかの会で入選を果たし、絵もそれなりに売れていたが、日本に描くものがないという喪失感は如何ともし難い。パリへ戻るしかなかった。オノレの魂を揺さぶる地祇がパリに根付く神であることを、祐三は下落合のアトリエで確信したのだろう。パリに触れてしまえば、パリに還るしかない。
しかし・・感戻ってみれば、パリは相変わらず凄然と微笑まぬままの無慈悲な女王だった。どうしようもない疎外感が、さらに彼を欝へと引き摺り込んでいくことになった。この時期の祐三は、一気に描ききるか写生とデッサンだけで放置するかを繰り返した。
その最後までオノレを貫けない祐三の苦悩を、米子はどう見たのだろうか?
いずれにせよ、最初はおずおずと・・次第に大胆に、米子は祐三の絵に加筆をするようになっていく。完成しない絵は売ることもできない、ただの習作だ。すべてを投げ打ってパリくんだりまで来て、売れない未完成品を描き続けている祐三に、米子は我慢ならなかったに違いない。米子は寄り添うように加筆した。
米子は知人に以下のような手紙を書いている。
「秀丸(佐伯の幼名)そのままの絵では誰も買って下さらないので私が手をいれておりますのよ。秀丸もそれをのぞんでおりましたし。あなたもそのことをよくご存知でしょう。秀丸そのままの絵に一寸手をくわえるだけのことですのよ。こつがありますから私、苦労致しましたがのみこみましたのよ。それは見違えるほどになりますから。画づらの絵の具や下地が厚いものにはガッシュというものをつかい画づらをととのへ、また秀丸の絵の具で書き加えますでしょう。すこしもかわりなく、よくなりますのよ。秀丸(佐伯の幼名)はほとんど仕上げまで出来なかったのです。私が仕上げればすぐに売れる画になりますのよ。すべての絵を手直ししてきちんと画会をしたいのです。」

夏が過ぎ秋が始まるころ、吉薗周蔵が斡旋してモンパルナスのブールヴァール162番地Boulevard du Montparnasse162の新築アパートの三階へ入居した。ここは薩摩治郎八の持ち物だった。二階は治郎八の妻・千代子がアトリエとして使っていた。
この時期には、祐三の絵のすべてに米子が加筆するようになっていた。
祐三は「第二次巴里日記」のなかで「あれは俺の絵やあらへん。俺が手伝った米子ハンの画や。マッスグな線ときつい文字を組み合わせた、北画のゑ々画や」と書いている。
悪意無く、夫を支える方法として・・良かれと思ってした米子の加筆は、祐三にとっては「お為ごかし」だったのかもしれない。

しかし祐三はそんな米子の「気持ち」を無下にはできない。
それでも米子の中にある「画力は私のほうがある」「だから加筆して完成させてやる」という自信、そしてその事実を、祐三は不快だったに違いない。
祐三は、米子が加筆できない作画の場所として、二階の薩摩千代子のアトリエにイーゼルを置くようになった。これが二人の仲を急速に不和にさせた。
こうして昭和2年(1927)のパリの厳冬は、二人にとっても辛い冬の時になってしまった。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました