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葛西城東まぼろし散歩#18/江戸より古い下総05

上古。関東平野の支配者たちは、近畿に立ちあがった日本列島最初の統一王朝(ヤマト王朝と呼ぼう)へ積極的に靡いた。背景に何が有ったか・・資料はない。資料としてあるのは景行天皇/ヤマトタケルの東征だけである。一部残されている「常陸国風土記」でも「高橋氏文」でも、その東征と頑強に戦った記録はない。示し合わされた通り従順にヤマト王朝へ飲み込まれていった。土地の支配者たちは、そのままヤマト王朝に指名されて土地の支配者として残っている。
「ヤマト王朝は、中央から彼らの管理者を出した。各地に国衛を置いたんだ。そして国衛を置いたところが国府として指名された」
「どの辺にあったの?」
「‥わかっている場所は少ない。関東平野には5つの国府が置かれた。『幻の国府を掘る―東国の歩みから』に記載されている資料を見ると

武蔵国(東京都府中市宮町)/安房国(千葉県南房総市府中)/上総国(千葉県市原市惣社)/下総国(千葉県市川市国府台)/常陸国(茨城郡)とある。比較的、わかっている国府のあり場所だ」
「千葉は安房と総(ふさ)に分かれたの?どうして?」
「土地の支配者が南房総地区に別にいたのかもしれない。ヤマト王朝の支配下にはいった時は"ふさ"の一部だった。養老2年(718)に独立した。『古語拾遺』を見ると、四国・阿波国の忌部が移住して支配したので安房としたとある」
「ふうん、でも総(ふさ)は忌部氏の支配者なんでしょ?それがどうして二つに別れたの?そもそも忌部氏って誰なの?」
「おいおい、話をどんどん広げるなよ。とっ散らかっちまう。
忌部氏は渡来人だ。当時としてはかなり先進の技術を持った人々だ。四国阿波・紀州・中国地方に分布していた。祖は、胡人あるいはもっと西の民族だった可能性が高い。華人ではない。・・まあ、その話に繋がると全然違うことをしゃべり始めちゃうからしない」
「ふうん、いいわ・・浅草の話をした時と同じね。浅草は渡来人が作ったという話。総(ふさ)の国も忌部氏という渡来人が統べていた・・ということ?」
「うん。そうだ。KATORIという言葉についても、一歩下がって語源を考えるべきかもしれない。僕はそう見るな。浅草がアサクッチャを語源としている話。チベット旅行記を書いた本願寺の住職だった河口慧海氏の説だ。近畿で支配権が採れなかった渡来人は、進んで関東に流れたのかもしれない。FUSAについても一考す癖かもしれないね。
ふさの国という名前について、初見は『古語拾遺』だ。忌部氏の祖・天富命が麻のとれる場所から「ふさ」と名付けたとある。ちなみにここで書かれている「ふさ」という字は手偏に「求」と書く。『大漢和辞典』で調べると"盛る"という意味だ。この語源から見ても大いに栄えていた所だったろうな」
「総(ふさ)を上下に分けてのは、武蔵の国を抜ける陸路が縦貫したから?いつごろなの?」
「700年代の半ばだ。"ふさの国"を上下に分けたという記録は明日香村石神遺跡や橿原市藤原宮跡で出土した木簡に記されている。
「安房国が総の国から独立したあと?」
「そのへんも確かな資料はない。」
「ない・ない・だらけなのね」
「ん。何しろ記紀とその周辺にある以外、既述したものがないんだ。書記の中に"一書曰く"とあるが、その"一書"が何も残ってないんだ。となると遺跡を探すことになるが・・推察に至るまでは難しい」
「こまったものね」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました