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黒海の記憶#35番外/オスマントルコとヴェネチア共和国の抗争

冬のヴェネチアが好きだ。
何年か前のことだが、早起きしたんでホテルのラウンジじゃなくて、ハリーズバーまで早朝、霧に沈むサンマルコ広場を散策した。ママは白河夜船だったから僕独りの散歩だ。
なので歩きながらオスマントルコとヴェネチア共和国の抗争を思い巡らす散歩になった。こんな朝は、ほんと至福に満ちている。

ベニスの商人たちが栄華を誇るそのとき。1299年。アナトリア地方西部に小国を建てた男がいた。オスマン=ベイという。
1200年代初頭、アナトリア地方西部はセルジューク朝の支配下にあったが、モンゴル軍の侵攻によって弱体化していた。それに乗じて各地の部族ガーズィが独自にベイ(君候)を名乗り、アナトリア地方西部には無数の小国家が生まれ、混乱に陥っていた。
オスマン=ベイもまたそんなベイの一人にすぎなかった。
ところが彼の立てたオスマン朝には際立った特徴があった。それは領土拡大を周囲諸侯との抗争に求めなかったことだ。彼は領土拡大を西へ求めた。ダーダネルス海峡を渡ったのである。
アジアとヨーロッパは、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡で分けられている。
過去、このダーダネルス海峡を越えてバルカン半島に侵攻したモスレムの諸侯は誰もいなかった。「眠れる虎・ビザンチン帝国」の逆鱗には誰も触れなかったのだ。
オスマン=ベイは、そこに活路を求めた。
実は・・バルカン半島の支配者・ビザンチン帝国は、東のセルジューク朝以上に弱体化/疲弊していたのである。

その原因を作ったのはヴェネチア共和国が仕掛けた第四次十字軍である。
ヴェネチアに寝首を掻かれたビザンチン帝国は、東の二ケアに亡命政府を作っていた。コンスタンティノープルは十字軍の居残り組が作ったラテン帝国のものになっていた。しかし所詮は田舎の騎士が寄り集まって作った国である。亡命政府が巻き返しを図り、1259年にペラゴニアの戦いが仕掛けられると、ラテン帝国はいとも簡単に崩落(1261)する。
実は、この戦いにヴェネチアは深く関与していない。
彼らは当初の目的である「ビザンチン帝国の勢いを削ぐ」ということが、第四次十字軍による攻撃で為されていたので、それ以上のことには恐らく興味がなかったのかもしれない。
ともあれ、漸うの態で取り返したバルカン半島だが、度重なった戦禍のためにビザンチン帝国は瀕死の状態にあった。そのため、新しい脅威であるオスマン=ベイの侵攻を易々と許してしまったのである。
・・そんなお家の事情を何処までオスマン軍が理解していたか。それは判らない。オスマン軍としては、殆ど戦力が同じ周辺の同族と戦うより、ダーダネルス海峡の向こうの新開地を目指しただけだったのかもしれない。
しかし攻め込んでみると、眠れる虎は唯の張子の虎だった。1326年、第二代オルハン=ベイがビザンチン領だったブルサを陥落させ、これを最初の首都とした。
破竹の勢いに乗るオスマントルコは、ムラト1世(位1359~89)の時代、バルカン半島のアドリアノープルへ首都を移し、コンスタンティノープルを囲むように周辺全ての土地を自らのものにした。しかしコンスタンティノープルは難攻不落だった。ビザンチン帝国は、この後もヴェニスの商人たちと協働し、100年近く海上貿易を続けたのだ。

なぜそんなことが可能だったのか? 実は領土拡大の過程で、オスマントルコは東方でティムール帝国と激突していたのである。
ティムール帝国は、ティムールという天才的指導者が一代で築き上げたモスレム国家だ。
オスマントルコは、彼との戦いに翻弄されていた。そのためコンスタンティノープル陥落のために兵力の全てを投下できなかったのである。
ところが、戦いの途中でティムールは唐突にその矛先を明(永楽帝)へ変えた。明の方がオスマントルコより陥落させ易しと読んだのだろうか。ティムールは一斉に西進を止め東進へ反転した。しかしティムール自身は、その遠征の途中(1405)に亡くなってしまうのだが・・このティムールの気紛れのおかげで、オスマントルコは突然東憂から開放された。なので戦禍の傷が癒えると本格的に再度コンスタンティノープル陥落のために動き始める。そしてメフメト2世の時代1453年。ついにコンスタンティノープルを攻略しビザンツチン帝国を滅ぼし、オスマントルコはイスタンブルを都とする大帝国になっていった。

この過程の中で、ヴェニスの商人たちは思いも寄らない事態に陥った。
奴隷貿易が不可能になったのだ。奴隷貿易は、ヴェネチア経済を支えていた東方貿易の主たる取扱い品目である。それが、オスマントルコによって出来なくなってしまったのである。もちろん商人たちは柔軟である。奴隷がダメならコレ・コレ・コレ・・と新しい商材の開発と既存商材の拡充を図ったのだが、結果としてみると、この奴隷貿易が不可能になったことがヴェネチア共和国の斜陽へ繋がっていったことは否めないと僕は思う。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました