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佐伯米子#05

大正13年(1924)1月3日、パリへ到着した佐伯夫婦は美校の先輩里見勝蔵の紹介で、セーヌ川左岸リュクサンブーグ公園の近くにあるホテル・デ・グランゾム(Hotel des Grands Hommes)に宿泊した。米子21才、祐三22才の冬である。
このホテルと佐伯との縁は深い。2度目のパリ訪問もこのホテルから始めているし、ひとり娘の弥智子はこのホテルで亡くなっている。
しかし今訪ねてもホテルに佐伯を偲ぶものはなにもない。

最初の訪巴のとき、佐伯夫婦は早々に此処を離れ、近くのホテル・ソムラール(現ホテル・オムラタン)へ宿替えしている。二人はソムラールの6階の角部屋に居を構えた。グランゾムは部屋が狭くて、とてもキャンバスを置ける処ではなかったからだ。しかしソムラールは問題ない。祐三のパリを描く旅行は、このホテルから始まっている。
祐三は兄祐正に以下のような絵葉書を送った。
「正月三日巴里市へ着きました。里見さんの家へたずねて行きました。家にゐました。君のことをきゐていました。何とも云えないよい所です早く君の来るのをまつています。ソムラールの横町に住むようになりました。ルーブルへ行きました。ルクサンブルグはスグ近クデス。研究所へ通つています。五階にいるのでノートルダムが良く見えます又後より」
キャンバスが広げられるホテル・ソムラールを祐三は気に入ったようだ。
しかし、彼らの部屋となった5階(日本式では6階)までは階段だった。これは脚の悪い米子に相当の負担だったに違いない、米子は不満を言わず耐えたが、厳冬のパリと、日々の昇り降りは辛かったろう。そんな米子を庇って、祐三も細かい買い物などは手伝ったりしていたが、大半の時間は里見勝蔵との写生歩きに費やしていたため、米子は幼い娘/弥智子と共に窓の外に見えるノートルダム寺院を見つめるだけの毎日を送っている。その日々に・・最初のパリに、21才の米子は何を感じたのだろうか?

僕は思う。米子にとってのパリは「亭主が好きな赤烏帽子」だったのではないか?彼女自身は殊更パリを望んでいなかったのではないか?
銀座尾張町の大店の次女で、典型的なお嬢さま学校である東京女学院へ通った米子にとって、街とは「京橋区」だったのではないか?帰国後44年間暮らした下落合でもなかった・・のではないか?そう思ってしまう。

余談になる私事だが、僕の母は神田三崎町生まれの製本屋の娘で、成人して佃/月島/勝どきで70年間暮らした人だった。僕が高校生のころ「新宿へ行ってくるわ」と言ったら「およしよ!そンな遠いところ、行くのは」と言ったことがある。うちの母にとって街とは正に「京橋区管内」だったのである。

二回のパリ訪問とも、洋食に馴染まず、装いも和服で通した米子にとって、パリは「ちょいと気に入っている異郷」でしかなかったと僕は確信する。
「米子はんは、私よりパリに馴染んでいる」と祐三が言ったことがある。これは二人にとってのパリを見事に言い表している。
祐三にとってパリは、自分のアイデンティティを再構築する壮絶な戦いの場だったのに対して、米子にとってのパリは「他人事の美しさ」だったのであろう。自らのアイデンティティを揺るがされるほどのものではなかった・・と僕は思ってしまう。
画作という部分で見るならば、米子が依るものは北画/文人画であり、洋画ではなかったから・・に違いない。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました