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昭和天皇の"人間宣言"について

****様、お手紙ありがとうございます。
「なぜ貴殿の『小説・日本国憲法』の中で昭和天皇の"人間宣言"について触れないのか」と云うご質問ですが。
深慮した結果、触れないでおこうと考えました。
「小説・日本国憲法」中、1946年1月元旦の部分を書くときに、この事はとても悩みました。それは、あの勅書を「人間宣言」であるとすることに、強い違和感を持っているからです。
どうも戦後日本を語ろうとすると、使用される"言葉"の裏側に埋め込まれた「嫌な臭い」がするものが多い。例えば・・明治憲法。嫌な言葉です。あれは大日本帝国憲法です。昭和憲法に対比した名で呼ぶべきものではない。天皇制・・嫌な言葉です。私は、こうしたコミュッテルンの臭いがする単語は全て使用しません。人間宣言というのも、私が嫌いな言葉の一つです。
私の「小説・日本国憲法」ですが。現憲法は、陛下の「薩長軍閥の跋扈から日本国が解放される」という御意思から始まっているとしています。そしてその話し合いが、第一回目のマッカーサー/昭和天皇会談で為されたとしています。もちろん資料はありません。同会談については、陛下とマッカーサーの間で「語らぬ」というお約束がされたからです。
しかし幾つもの文書が、アメリカ側からも日本側からも、すぐさま公開されています。

中で最も重要なのは、この会談の通訳を務めた奥村勝義のものです。・・しかし、これを声に出して読むと、あの会談に要した時間37分間にはならないのです。相当ゆっくりと話されたとしても、かなり時間が余る。私は、通訳を通さない話が、陛下とマッカーサーの間であったのではないか?そう疑問を持ったのは、ここからでした。そして会談後、マッカーサーの陛下への態度が豹変したという記録からです。
陛下のお口から、全ての事態を善転換してしまうご提案がされたのではないか?私はそう思ったのです。
「国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)」は、その会談後三ヶ月後に出されたものです。この段階では、まだ日本側は帝国憲法に確執する松本案に振り回されていました。GHQ側は他の日本国改革政策に奔走しており、日本政府による憲法改正には強い関心を持ちながらも何らかの関与をするという意思は有りませんでした。
その停滞のときに、この勅書は出されたのです。
確かに勅書末尾の「天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。」という檄は重いものでは有りますが、この行が、この勅書の全てではないと私は考えます。むしろ重きは、最初の部分「五箇条の御誓文」に有るのではないか?私はそう思うのです。
あのとき。1946年1月1日に最も相応しい陛下の御意思の発露は、"人間宣言"ではなく、日本は明治天皇が、明治のはじめ国是として五箇条の御誓文をされているということを再確認することだったと・・国運振興は此処から始めると・・いうことだったと、私は思います。
この稿の一番最後に「国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)」の口語訳と原文を掲載しましたので、ぜひご自分の目で再度お確かめください。
さて。この勅書について、陛下ご自身の言葉を引用します。

高橋紘の著書『陛下、お尋ね申し上げます』の中にあります。
昭和52年8月23日。那須御用邸で行われた宮内庁記者団との記者会見です。
記者「ただそのご詔勅の一番冒頭に明治天皇の「五箇条の御誓文」というのがございますけれども、これはやはり何か、陛下のご希望もあるやに聞いておりますが・・」
天皇「そのことについてはですね、それが実はあの時の詔勅の一番の目的なんです。神格とかそういうことは二の問題であった。
それを述べるということは、あの当時においては、どうしても米国その他諸外国の勢力が強いので、それに日本の国民が圧倒されるという心配が強かったから。民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。
 そうして、「五箇条の御誓文」を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあったと思います。
それで、特に初めの案では、「五箇条の御誓文」は日本人としては誰でも知っていると思っていることですから、あんなに詳しく書く必要はないと思っていたのですが。
 幣原が、これをマッカーサー司令官に示したら、こういう立派なことをなさったのは感心すべきものであると非常に賞讃されて、そういうことなら全文を発表してほしい、というマッカーサー司令官の強い希望があったので全文を掲げて、国民及び外国に示すことにしたのであります」
記者「そうしますと陛下、やはりご自身でご希望があったわけでございますか・・」
天皇「私もそれを目的として、あの宣言を考えたのです」
記者「陛下ご自身のお気持ちとしては、何も日本が戦争が終ったあとで、米国から民主主義だということで輸入される、そういうことではないと、もともと明治大帝の頃から民主主義の大本、大綱があったんであるという・・」
天皇「そして、日本の誇りを日本の国民が忘れると非常に具合が悪いと思いましたから。日本の国民が日本の誇りを忘れないように、ああいう立派な明治大帝のお考えがあったということを示すために、あれを発表することを私は希望したのです。」
この記者会見を読んでも、あの勅書がGHQの圧力によって陛下が迎合し、天皇の神性否定をしたものであるという縷言が、まったくの嘘であることは判ります。
さて。最後に「国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)」の口語訳と原文を添えて、お話を終わりたいと思います。

【国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)】
ここに新年を迎えました。
かえりみれば明治天皇は、明治のはじめに国是として五箇条の御誓文を下されました。
そこには、次のように書かれています。
一、広く会議をおこし、万機公論に決すべし。
一、上下心を一にして盛んに経綸(=経済活動)を行うべし。
一、官武一途庶民に至るまで、おのおのその志をとげ、人心をしてうまざらしめんことを要す。
一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。
一、知識を世界に求め、おおいに皇基を振起すべし。
明治大帝のご誓文は、まことに公明正大なものです。これ以上、何をくわえるのでしょうか。
朕は、ここに誓いを新たにして、国運を開こうと思います。
私たちはもう一度、このご誓文の趣旨にのっとり、旧来のわるい習慣を去り、民意をのびのびと育て、官民あげて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、もって民間生活の向上をはかり、新日本を建設するのです。
大小の都市が被った戦禍や、罹災者のなやみや苦しみ、産業の停滞、食糧の不足、失業者の増加・・。現在の状況は、まことに心をいためるものです。
しかし、私たち日本人が、いまの試練に真っ向から立ち向かい、かつ、徹頭徹尾、文明を平和の中に求める決意を固くして、結束をまっとうするなら、それは、ひとりわが日本人だけでなく、全人類のために、輝かしい前途が開けることです。
「家を愛する心」と「国を愛する心」は、私たち日本人が特に大切にしてきたものです。
いまや私たちは日本人は、この心をさらに押し広げて、人類愛の完成に向かって、献身的な努力をしていきましょう。
私たちは、長かった戦争が敗北に終わった結果、ややもすればいらいらと焦ったり、失意の淵によれよれになって沈んでしまいそうになります。
だからといって、過激な言動に流され、道義心を喪失し、思想を混乱させてしまうのは、心配にたえないことです。
しかし、朕は、常に汝ら臣民とともにあります。
朕は、常に皆さんと利害を同じくして、喜びも悲しみも一緒にわかちあっています。
そして、朕と汝ら臣民との間のきづな(=紐帯)は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれているものです。
それは、単なる神話と伝説によって生じているものではありません。
そしてそのことは、天皇をもって現御神とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族として、ひいて世界を支配すべき使命を有するなどという架空の観念に基づくものではありません。
朕の政府は、国民の試練と苦難とを緩和するために、あらゆる施策と経営とに万全の方策を講じます。
同時に朕は、わが国民が、当面する難題に対処するため、心を定めて行動し、当面の困苦克服のために、また産業および学問、技術、芸術などの振興のために、ためらわずに前進することを希望します。
わが国民がその公民生活において団結し、互いに寄り合い、援けあい、寛容で、互いに許し合う気風を盛んにするならば、からなず私たち日本人は、至高の伝統に恥じない真価を発揮することができます。
そうすることで、私たちは人類の福祉と向上とのために、絶大な貢献をすることができます。
一年の計は元旦にあり、といいます。
朕は、朕の信頼する国民が、朕とその心を一にして、みずから奮い、みずから励まし、もってこの大業を成就することを願います。
御名 御璽
昭和21(1946)年1月1日
官報 号外 昭和二十一年一月一日
詔書
茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。
大小都市ノ蒙リタル戦禍、罹災者ノ艱苦、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢等ハ真ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然リト雖モ、我国民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、独リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。
夫レ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努カヲ効スベキノ秋ナリ。
惟フニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰へ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ。
然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。
朕ノ政府ハ国民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我国民ガ時艱ニ蹶起シ、当面ノ困苦克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往センコトヲ希念ス。我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。斯ノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ為ス所以ナルヲ疑ハザルナリ。
一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。
御名 御璽
昭和二十一年一月一日
内閣総理大臣兼
第一復員大臣第二復員大臣 男爵 幣原喜重郎
司法大臣 岩田宙造
農林大臣 松村謙三
文部大臣 前田多門
外務大臣 吉田茂
内務大臣 堀切善次郎
国務大臣 松本烝治
厚生大臣 芦田均
国務大臣 次田大三郎
大蔵大臣 子爵 渋沢敬三
運輸大臣 田中武雄
商工大臣 小笠原三九郎
国務大臣 小林一三

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました