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夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩3-5/クリュニー#05

https://www.amazon.com/Inventaire-G%C3%A9n%C3%A9ral-Manuscrits-Archives-D%C3%A9partementales/dp/1271936615/ref=sr_1_12?crid=2N46YBU148J6O&keywords=abbey+cluny&qid=1699072655&sprefix=abbey+cluny%2Caps%2C225&sr=8-12
ミニュシパル通りRue municipaleを入ると右側にチケットセンターが有った。左側にBrasserie du Nord(Pl. de l'Abbaye, 71250 Cluny)というお茶するところがあった。
「帰りはここでお茶ね」嫁さんが言った。
チケットセンターは、午後だからか購入客はいなかった。チケットの種類を見ると"ベルノンチケットBernon ticket"というのがあった。これは修道院と博物館だけをみるチケットだ。
それと主要な施設すべてを見る"アーバンチケットUrban ticket"があって、これだとクリュニー修道院/美術館と博物館そしてベルゼ ラ ヴィル修道院礼拝堂Berzé-la-Ville monks'chapel/フロマージュへのthe Tour des Fromagesで使用できるとのことだった。
「時間ないからそんなには回れないからなぁ。今日はBernon ticketにしよう」これを購入した。
先ずは修道院の回廊を歩き庭へ出た。
「なんかガラッとした雰囲気ね。観光客、少ないし」
「ん。でもまあ、ここまで100年かけてきちんと戻した・・ということだ。ほとんどの修復費用はアメリカが出したんだけどな」
「え~どうして?」
「ケネス ジョン コナントKenneth John Kont(1894–1984)という人がいた。ハーバードの建築学史の研究者だ。第一次世界大戦後、クリュニーを訪ねた彼は、あまりの荒廃ぶりに苦慮して、1925年からグッゲンハイム記念財団が始めたグッゲンハイム・フェローシップGuggenheim Fellowshipに復興要請を申請したんだ。ここの修復と研究はグッゲンハイムの金でやってる。ケネス・コナントが中心になって復興が始まったのは1928年からだ。・・ほぼ10年、彼はここの再興に時間を費やしている。その後もコナントは生涯のほとんどをクリュニーの再興と研究に費やしている。『Arqueología Cluny Las iglesias y la casa del jefe de la orden Kenneth John Conant』という本があるが・・手に入れるのは難しい。

いまの1/10まで復活が出来た・・というのは彼の業績だよ」
翼廊に立つと高い天井が見える。スクインチ上の高いドームと、壊れた樽型ヴォールトの 2 つのコンパートメントが有機的な酩酊感をもたらす。大きな教会に向かって開いる、しかし北側は壁でふさがれて現存していない。奥に礼拝堂が二つあった。1 つサンテティエンヌ礼拝堂。もうひとつはサン マルシャル礼拝堂。製作時代が前者をロマネスク様式にして後者をゴシック様式にしている」
「柱にところどころ動物の姿が描かれているのね」
「ん。ローマの教会は偶像崇拝を禁じていた。しかしガリアに流れたキリスト教は原住民の心情を組み入れて無数の偶像を作った。しまいにはそれが世界へ逆流して、教会=偶像の集積所になったんだ。モスレムを信奉する人々の拝礼所はいまでも偶像はない」
「あ。そうね、そういえばないわね」
「ん。アリア信仰もそうだ。キリスト教は父性宗教だから、マリアへの信仰はなかった。それがガリアに広がると地元の地母神と呼応してマリア崇拝を産み出すんだ」
「え~マリア様を崇めるのは後からなの?」
「ん。200~300年ころから、ガリアにキリスト教が浸透するのと同時くらいだ」
「知らなかったわ」

「新約聖書の中に、マリアの話は殆どない。むしろその少しあるアリアについての言及を、マリア崇拝するキリスト教徒たちはディフォルメする傾向にあるな」
「イエスを抱くマリアの像とか、絵画とかいっぱいあるでしょ? 教会にもいっぱいあるでしょ?」
「ん。すべて中世以降のものだ。・・考えてみれば分かるんだが、キリスト教のネタになったユダヤ教は偶像崇拝を徹底的に否定してる。シナゴーグに主なるものを形にした像はないだろ?イスタンブルや中東の街で見た壮大なモスクを見てごらん。どこにも髪の像もモハメッドの絵も、宗教画を壁に並べたところは一つもなかっただろ。美しい文様と草の絵と文字が書かれているだけだ」
「そうね、ないわね」
「キリスト教がユダヤ教の傍系なら・・実はある方がおかしい。でも、もう一つのネタになったミトラ教は偶像オンパレードだ。
その意味でもキリスト教は偶像崇拝を取り込める余地が最初から十分あったということなんだろうな。それが開花して、マリア崇拝が生まれ、イエスの磔の絵が無数に作られ、聖人たちを描いた絵や像が、普通に教会や修道院に飾られるようになったんだよ」
「そう思うと・・キリスト教の方が旧い信仰の在り方を、そのまま踏襲しているということかしら?」
「うんその通りだ。良いことに目が行ったね。キリスト教は他のどんな宗教より、入信しやすい・・すばらしいビジネスモデルなんだよ。信仰の業態変革に抵抗がない宗教なんだ」
「ビジネスモデルねぇ」
「生きがいや、生きてる理由をパッケージ化して販売する。それが"教というものの事業の本質だ"と捉えれば、ビジネスモデルとして理解するほうが事実に近い。ブランド(信心)対するロイヤリティ(忠誠心)も、どう確保するか考えるなら、これも理解しやすい」
「そうかしらねぇ~事業として信心を考えるのは、信心する側じゃなくて、信心させる側からの視線のように思えるけど。・・もっと簡単に、優しく思いやりをもって、こころ安らかにいたほうが良いように思うわ」
「ん。たしかにその通りだ。みんながその気持ちでいてくれたら聖戦なんて殺し合いは起きないだろうし、大義のための殉死もないだろうな・・」
「なんか・・むずかしい話になっちゃった」

僕らは、ゆっくり暫し沈黙のまま庭を散歩した。
僕は、ウクライナの騒乱から逃げ出せずに戦争に狩り出される人々の影を見た。
負けるのが分かっているのに、戦争を終わらせるために死んでいく人の思いを見た。
通りへ出た。前はアビー広場という。目の前Brasserie du Nordの前に立つと嫁さんが明るく言った。
「早かったわね、すぐお茶ね」
「その前に、少し先に壊された建物の柱の基底が並んでいるところがあるLes Barabans du nartex。そこを観よう。観光気分だ」僕は少し先の角を指差した。
「ああそう」
お茶する店があるアビー広場を少し行くと、幾つか並ぶその柱の前に建った。基柱は4つだった。
「ケネス・コナントが来たときは、ここに有った建物は無くなっていたのかしら?」
「そうだろうな」
「ぜんぶ無くなったの?誰かが持ってっちゃったの」
「ん。持ってけなかった跡が・・この柱基底部だ。こればっかりは誰も掘り返して持ってかなかった」
「ビックリね。ほんとにみんな持ってっちゃったのね」
「うん。みんなの家の壁になったり、家財になったんだろうな。修道院は崩壊した後も、ちゃんと世の中の役に立った・・という訳だ」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました