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戦争花嫁

令和にとっての昭和は、昭和にとっての明治みたいなものらしい。時間的距離感もそんな感じだからね、そういわれると何となく納得しちまう。最後の昭和(1989)生まれは既に34歳になってるわけだしね。
そんなことを思いながら、つらつらと昭和の話を書いているワタクシは昭和26年(1951)対日講和条約・日米安保条約調印の有った年に生れております。
今朝は昭和の遺産・戦争花嫁の話をしたい。

父は米兵だった。母に何度も求婚したが母は諾わぬまま僕を産んだ。GHQで働いていた母は何人もの哀しい戦争花嫁を見ていたからだ。母は父と共に米国へ渡ることを恐れていた。
一度だけ年老いた母がそのことを口にしたことがある。子供たちがアメリカで生活し,下の娘がNYCで結婚した時だ。
「あのとき、父さんに従って渡米してたほうがよかったのかねぇ。でもとっても怖かったんだよ」と・・
僕は言った「もし母さんが渡米してたら、僕は史枝と逢わなかったし今の二人もいないよ。母さんが決めたことのおかげで、今の僕の家庭があるんだ」そういうと母が力なく笑った「そうだねぇ。そうだけどねぇ」
その経緯と、その後の経緯は母の兄弟から何回か聞いていたから、それなりに知っていた。
母が逡巡するほど、日本人の戦争花嫁は米国国内でも、その外でも大変な苦労をしていたらしい。

あの大戦で、アメリカは1600万人のアメリカ人の青年を動員した。
とうぜん赴任先での恋愛問題は各地で発生した。
そうした事態を予測して従軍牧師などのフル動員して「反フラニタゼーション活動」を行っていたが焼け石に水だった。それでも欧州戦線からフランス人イタリア人イギリス人の女性を連れ帰ることについては寛容だった。ドイツ人女性を連れ帰ることについても1946年12月11日に結婚禁止令が解かれ、簡単ではないが可能になっている。
しかし・・太平洋戦線となると・・オーストラリア、ニュジーランドについては寛容だった。16,000人ていどの女性が米兵と共にアメリカ本土へ渡っている。ところが黄色系インド系については消極的だった。それでも1946年7月には公法 483(戦争花嫁法 The War Brides Act)が発令され、インド人とフィリピン人は結婚による帰化を認めるようになっていく。直前6月29日に出された公法 471(G.I. 婚約者法)を見ると、婚約者の入国を優先的に「割り当て内」でビザを発給するとある。そして割当人数を超えた場合は非移民としての3ヶ月間の一次滞在用の訪問ビザを発給した。そしてその間に米兵と結婚した女性に対して永住権を発行するとある。軍から出される細かい具体的な締め付けは相当厳しかったが、越えられない壁ではなくなっていったのである。

しかしこの公法から日本人と朝鮮人は外されていた。越えられない壁のままだったのだ。相変わらず1920年代に成立した「アジア人排斥法」が生きていたのだ。
こうした姿勢は、現場からの突き上げを食らった。欧州戦線に参戦した兵士と太平洋戦線に参戦した兵士を差別するのか? !と・・
仕方なく1947年7月22日公法213(日本人花嫁法Japanese Mrides Act)を発令、施行30日以内に申請した者のみを入国可能にした。しかも同年12月28日までに入国を終わらせてなければ無効とした。なんとも付け焼刃的な法律だ。
1948年3月24日公法213は、その期限を48年12月31日まで延長された。そして1950年8月19日公法717によって公法213は再度修正され52年3月19日まで結婚していれば米国への入国を認める・・というものになった。

どうだろうか?こうした時系列を見つめていると、僕の父が母に求婚した1951年前後当時の背景が見えてこないだろうか?
二転三転する軍と米国のアジア人への姿勢。その間を縫って渡米した母の友達たちが味わった信じられないような差別の苦しみ。逡巡する母の苦悩・・見えてこないだろうか?

人気取りで「移民法から差別を撤廃する!」と声高らかに叫ぶトルーマンの綺麗ごとは、あまりにもきれいごとだったこと・・僕は若かった母の苦悩と逡巡に、それを見てしまう。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました