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佐伯米子#04

ただひたすら実直な祐三は、描画技術以外のもの全てを・・パリで打ち砕かれた。
グラマンクから受けた怒号だけではない。街が、光が、風が、匂いが、古代/中世/近代/現代と続く欧州の重みが。欧州人ならば自然全身に染み付いているそれが、オノレには欠落していることを・・祐三はまるで捻伏されるようにして、この街で気付かされたのである。

洋画を描く技術力はある。技術は習得できる。しかしその裏側にある「文化」はそう簡単に身体に滲み込むものではない。
欠落感。これがパリで祐三が得たものだ。
その原因のひとつは祐三の性格的なものでも有った。パリにいても、他の「諸外国から来ている天才たち」に知己を求めるわけでもなく、・・良く云えば日本的(田舎モノ的な)豪胆さ・・を祐三は通した。偏食し風体も生活態度も、地方から東京の美大へ来た(俺は凄いんだと思い込んでいる)田舎モノのままだった。決してパリへ溶け込もうというものではなかった。・・でありながら祐三はパリの街に恋したのである。
彼は自分の描くべき素材を「パリとその郊外」としたのだ。

しかし・・正面すればするほど。一体感の欠落した「共感」は大きな矛盾を孕むものだ。次第に病んでいく彼の心の本質は、心拠るべき地祇の挿し木が為され無かったことにあると、僕は思ってしまう。
フジタはその罠に落ちなかった。そして、多くの洋行帰り日本人画家は、そこまで真っ当にパリと正面しなかった。

不幸にして・・敢えて言おう。不幸にして。
祐三には、洋画を描く技術と、画材とスケッチして歩く/ホテル暮らしを続ける/アトリエを借りる資金力が有った。それが彼を、最初から最後まで「旅人としてパリを描く者」にさせてしまったのだと僕は思う。
糧を求めて売画しながらモンマルトルの丘の上にタムロする、パリへ流れ着いた「外国人絵描き」にならくても・・パリの日本人社会を往来するだけで、祐三夫婦は充分生きていけたのだ。つまり祐三にとって、パリへ出かけることは「長い写生旅行」でしかなかったのである。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました