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悠久のローヌ河を見つめて12/ローマ道と修道院

最初の千年紀後半、ガリア(欧州)各地に無数の修道院が建立されだが、その場所設定には一定のルールが有った。それは"道"である。修道院は"道と云う線で結ばれる"ことを念頭に置いて建立されたのだ。けっして人里離れた隠遁地に作られたわけではない。
もちろん、その"道"のべースは「ローマ道」である。最初はローマ侵攻のために、そして後には交易のために使用された"ローマ道"は、ローマ崩壊後もガリア各地にそのまま残った。その主たる中継点へ修道院が次々と建立されていったのである。修道院の建立は、そのまま国家の整備と同義語だったわけだ。

「道の駅」である修道院は、重要な使命を帯びていた。それは"道"を旅する人々のために宿と食事を提供することである。これが修道院の大きな仕事だった。続けざまに修道院が各地で建立されると、線は"面"になった。
旅とは、こうして広がった修道院ネットワークの間を移動することになって行ったのである。
交易は国を支える血流だ。税は、生産と共に富の移動の上にも課せられる。その要に修道院は居を構えたのである。

国家の根底部分に身を置いた修道院は、貴賎に関係なく宿と食事を旅人に無償で提供した。もちろん、富める者が受けるサービスと、貧しい者が受けるそれとは格段の差が有る。寄進の額と質が、そのままサービスの差になっていたのだが。

もちろん、こうした旅人へのサービスが、修道院側にとって相当な負担だったことは間違いないだろう。その負担を賄ったのはワインの製造である。ワインは、相変わらず物々交換用の貨幣として充分機能していたのだ。
たしかに葡萄の木の栽培は農家が作るケースが増えていたが、葡萄の実を絞る技術/醸造する技術は、ほぼ修道院が独占していた。ワイン製造は修道院が独占する商いだったのだ。。

こうして作られたワインは、ローヌ川流域の場合、北の城塞都市リヨンと、南のアヴィニョンの集約した。
前者リヨンは、ローマ道の交差点/ソーヌ川・ローヌ川の分岐点だったので、古来から城塞内に大市場が有った。交易は盛んで、早くから金融業が定着した都市でも有る。そのリヨンに、さまざまな交易物に混ざって各地のワインやリキュールも集まっていたのただ。そして珍しいもの美味なものは、ソーヌ川を遡りフランドル地方まで運ばれた。一方周辺農家が作る安いワインは、課税されない城塞の外に並ぶ食堂/居酒屋で消費されていたようだ。

しかし絶対量から見ると、ローヌで生産されたワインの多くは、南のアヴィニョンに集まる傾向にあった。
アヴィヨンはローヌ川に寄り添って、コンタ平野を向いて出来上がった町である。その肥沃な土地を利用して早いうちから農耕が行われており、ローマの支配地としても、かなりの歴史を持つ町だ。コンタ平野で作られた農作物が、ここから船に載せられて下流のアルルへ運ばれていたので、町はそこそこに栄えていた・・
ところが、ここに1309年、突然カトリックの教皇座が移されることになったのである。

町は大量の僧と、それに関わる人々を受け入れて、アヴィニョンは唐突に大都市になった。
しかしこの教皇座の移転は、徹底的に批判された。
ジョンケリーの著書「黒死病 ペストの中世史」の中に、当時のアヴィニョンについて、イタリア人ペトラルカの言葉として以下のような記述が有る。
「現存する都市のなかで、最も陰気で、人口過密で、治安が悪く、世界の汚いものがすべて集まったゴミ溜めのようだ。鼻が曲がりそうな悪臭に満ちた路地、いやらしい豚と唸り声をあげる犬……壁が揺れるほどの車輪の騒音、荷車一台で塞がれてしまう曲がりくねった通り。これらに対する吐き気を催すほどの嫌悪感は、とても言葉にできない。あまりにも雑多な人種、見るも哀れな乞食、鼻持ちならない金持ち連中!」
結果、1377年、再度教皇座はローマに戻っている。

ところがローマに戻った僧侶たちは、アヴィニョンで飲んだワインの美味しさを忘れることが出来なくなっていた。イタリアの粗雑な地酒には戻れなくなったのである。そのため、彼らの喉を潤すためにローヌからイタリアへ、アルルの町を通過して大量のワインがローマへ送られるようになるのだが、同時にイタリア各都市の貴族たちも、こうしたローヌ川流域のワインの魅力に気付き始めるようになった。結果としてローヌワインのマーケットは、大きくイタリア半島内へシフトするようになってしまったのである。
もともとワインは、南から北へローヌを遡って交易されていたものだったのが、こうして次の千年紀に入ると、その流れは逆転し、ローヌ川を下ってイタリアの各都市へ運ばれるようになっていったわけである。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました