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東京島嶼まぼろし散歩#20/伊豆国05

「頼朝は伊豆に思い入れがあったと思う。青春時代を過ごした場所だからな。幕府を鎌倉に興したとき、かれは伊豆を幕府直轄の地にしたんだ。それは北条執権時代になっても変わらなかった。室町時代になって足利氏に政権が移ると、足利基氏は上杉憲顕を関東管領にした。以降、管領職は代々上杉氏踏襲して伊豆と伊豆諸島は全て上杉家管轄下に入ったんだ。その後は北条早雲のものになった。・・実はな、もう一つ幕府直属になる大きな理由があった。金だ。土肥金山がある。金の産出量は佐渡金山に次ぐ生産量を誇っていた」
「金山?」
「ん。今でもある。土肥だ。今は枯渇して産出できない。一度だけずいぶん前に行ったけど、観光地になってたな。
最初に金山として本格化したのは室町時代の頃だ。足利幕府は直轄の金山奉行を置いていた。江戸時代に入って、徳川幕府も金山奉行を置いた。大久保石見守長安なんだが、このひとがクリエイティブな人で新しい技術をどんどんと投入させたんだ。それで土肥の金山は大横谷、日向洞、楠山、柿山、鍛冶山等に拡大した。産出量は佐渡の金山並みに有ったという。大久保長安のおかげで土肥の町は『土肥千軒』と呼ばれるほど大きな町になっんだ。まあでも大きな鉱脈ではなかったからな。急速に枯渇して寛永2年(1625)には休山になつてる」
「流刑は?江戸時代はなかったの?」
「もちろんあった。『御定書百ヶ条』をみると、遠島刑は伊豆半島ではなく伊豆七島だ。大阪京都は薩摩、隠岐、天草あたりに流された。江戸は伊豆七島が多かった。佐渡金山ということも有ったようだ。ちなみに明治になるとこれが蝦夷(北海道)になるんだが、明治41年に警報が改正されて流罪という咎は無くなった。つまり流罪は1300年もあったということだ。
それもあって伊豆七島は江戸幕府の直轄になつたんだよ。それまでは賀茂郡だった。戦国時代は、小田原の後北条氏の支配下に有った。」
「それがそのまま秀吉の命令で江戸と共に家康のものになったわけね」
「ん。代替えとして家康の領地はすべて秀吉の家臣のものになった。伊豆諸島については、産業も無いし流刑の地にしか役に立たないから家康に投げたんだろうな。家康の部下たちが怒りまくったのは仕方ないな」
「でも最後は家康が勝った・・」
「ん。時がね。老いた者は去り、生き残った者が統帥権を持つ。それに抗って係累へ後を譲るために動くと・・まま老いがその判断を狂わせる。家康はその時を待ったわけだ。いつでも勝敗は"時"が大きなキーワードになるんだ。歴史の中に多くその例がある。人の命は・・やらなければならないことに比して、あまりにも短い」
「つらいわね」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました