見出し画像

東京散歩・本郷小石川#07/60年ぶりの円乗寺お七の墓再訪

いつものように、トンビになった気持ちで地下鉄三田線の中で地勢を視る。まあ穴倉をモグラみたいに走ってると、なかなか難しい曲芸でもあるが・・それでもトンビになる。
トンビになったついでに、地表にカビのように生えてるヒトの営み・・家屋をすべて取り除く。太古から引き継がれている台地を視る。
白山通りは谷間だ。右側か本郷の丘、左側が小石川の丘だ。昭和22年に小石川/本郷両区が合併して文京区になった。
合併時、民主的の追い風を受けて区名を東京新聞で一般公募したのだがイマイチ決まらず、両区職員対象に再募集し、小石川区の職員が提案した「文京」が採用されたという経緯がある。

この辺りは、関東平野の南側/武蔵野台地の東縁部だ。山の手台地の襞の一つである。 本郷は本郷台群といわれる台地形成の末端。小石川地区は豊島台群上の末端である。「白山通り」と呼ばれているのが本郷台群と豊島台群を分別している小石川谷である。
「武藏野台地東部の地形・地質と周辺諸台地のTephrochronGlogy」から引用する。

https://www.jstage.jst.go.jp/.../jgeogr.../62/2/62_2_59/_pdf

「小石川・本郷・上野の台地では,ローム層下に同じく2~5mの粘土砂互層があり,その下に5m以下の厚さの砂礫層2),さらに下位には貝化石を含む粘土および砂の層がつづく。すなわち山の手砂礫屡の厚さは概して豊島台に厚く,小石川・本郷・上野の台地に薄い。地下鉄の試錐によつてこの砂礫層下の不整合面の海抜高度を調べてみた結果,この不整合面は豊島台東部と,小石川の谷の両側の台地では海抜15m前後でかなり平坦なこと,および豊島面と本郷面の間にはほとんど高度差がないのに,白山と後樂園をむすぶ谷を境としてかなり急激に高度を減じ,それ以東では10m以下になつていることを知つた。」
つまり小石川谷を挟んで本郷台と小石川豊島台群とは全く違う地層で形成されているのである。

文京は「坂の街」だが、その成り立ちは白山通り/小石川谷を挟んで別々のものなのだ。・・なるほど本郷に比べて旧小石川区のほうがのっぺりとした印象の差が多いのはその地質のせいか・・
前述、肇叔父さんと出かけた白山の円乗寺お七の墓は本郷台側にある。
本郷通りと白山通りが一つになるあたりだ。地下鉄白山駅を後ろから出て浄心寺坂を上って左側に円乗寺はある。60年ぶりに訪ねた。浄心寺坂の一つ目を曲がって少し先にお七の墓がある。景色は僕の記憶のものとは一変していた。60年の時間経緯は重い。
もちろん、この墓はお七が磔になったときに作られたものではない。井原西鶴によって取り上げられ、スーパーヒロインとなった後のものだ。第一、磔になったお七が此処に弔われたかも藪の中だ。
「お七」話の初出は戸田茂睡の「御当代記」である。東洋文庫で原文にあたってみると「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」天和三年(1683)の記事内(p53)にある。

もう一つは「御仕置裁許張」で、此処には江戸・市ヶ谷左内坂のお志ちという女が放火未遂の罪で火あぶりの刑になったとある。「御仕置裁許張」は江戸幕府が制作していた判例集なので、これも史実だろう。

それと、天和期に類発した大火の見聞記である「天和笑委集」の中にお七について書かれたものがある。之に拠ると、お七の家は天和の大火で(天和2年12月28日1683年1月25日)で焼け出され、両親と共に正仙院に避難したとある。その避難生活の中でお七は寺小姓の生田庄之介と恋仲になってしまった。しかし家が再建されると自宅へ戻るしかない。お七、庄之介への恋慕は募るばかりで、もう一度火事になれば寺に戻れると思い込み自宅に火をつけた。幸いボヤで収まったが、お七は放火の罪で捕縛され鈴ヶ森刑場で火あぶりに処された・・とある。

円乗寺が避難先として書かれているのは加藤曳尾庵の「我衣」だが、加藤曳尾庵が医師として江戸にもどって(寛政8年)から書かれた随筆集なので、事件からは100年以上経ってからの記録である。

本家やら 元祖飛び交う 墓の上

ちなみに井原西鶴は本駒込の吉祥寺としている。西鶴が「好色五人女」を書いたのは貞享3年(1686)。時間軸として見てみると、創作物である西鶴が意外に初出に近いことがわかる。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました