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堀留日本橋まぼろし散歩#20/日本橋・元吉原#01

水天宮通りから浜町へ向かって歩いた。二本目の通りが「大門通り」だ。
「この通りから向こうに元吉原が有った。吉原が此処に有ったのは40年ほどで、すぐに浅草に移っちまうんだがね」
「小さな飲食店がほんとにたくさんあるのね」
「ん。吉原が無くなった後も花町・芝居町として残ったからな。明治の御代になっても。大正・昭和になっても粋な街として残ったんだ」
「元吉原って大きかったの?」
「浅草ほどではない。幕府から庄司甚右衛門が遊廓地として拝領したのは日本橋葦屋町二丁四方だった。一丁は120m位だから220m四方だな。周囲に堀を作り出入りは一つだけにした。それが大門だ。大門が有った通りが大門通り」
「庄司甚右衛門?」
「ああ、元吉原の惣名主になった人だ。もともと庄司甚右衛門の廓は道三堀柳町に有った。あの辺に出入りしていた男たちへ春を鬻いていたんだ。ところが道三堀がどんどん整備されていくと、柳町の廓は近在に有った廓と一緒にまとめて元誓願寺町へ強制移転させられたんだ。慶長10年(1605)だ。柳町は築城のための馬場用地にされたんだ。元誓願寺町は、いまの神田須田町から岩本町あたりな。元誓願寺町には駿河府中から来た廓が有ったから、ここと一緒くたにしたんだ。庄司甚右衛門は相模小田原北条家の家臣で脱サラだ」
「お侍の脱サラ?」
「ん。当時は本場京都・六条から流れてきた廓。そして駿河府中・弥勒町から来た廓。江戸前の道三堀柳町の三つが江戸市中にあった」
「庄司甚右衛門って小田原の人なんでしょ?」
「家康さんがくるまで江戸は北条家の者だったからな。庄司甚右衛門は小田原城が落ちた時、浪人になって江戸へ流れてきたんだ。そのとき侍から町人に転身し廓を開いた。それが道三掘・柳町の廓だ。・・もしかすると柳町という名前は、彼の廓が有ったために付いた名前かもしれないね」
「どうして?」
「豊臣秀吉が天正17年(1589)家臣だった原三郎左衛門と林又一郎に、京都で、廓を開くことを認めている。万里小路と冷泉押入小路の間だ。これの名前が遊郭『二条柳町』だった。庄司甚右衛門が道三掘に廓を興したのは、この翌年か翌々年だから、この名前を踏襲したのかもしれない」
「でも、繁華街になっちゃったから追い出された?」
「ん。そこで支柱に有った三つの廓の総代として幕府に、統合した新しい丘場所を拝領できないか?と彼が願い出たんだよ。」
「庄司甚右衛門って、元お侍だから偉かったの?」
「それもあるが・・なかなか機を見るに敏なひとだったらしい。
家康が天下分け目と関が原の戦いに臨んだ時、庄司甚右衛門は軍団が通る街道沿い鈴ヶ森八幡宮に急造で茶屋を出したんだ。そして此処に美女8人を配して家康の家来衆にお茶を出したんだ。全員揃いで赤い手拭いを被り赤い前掛けをさせてね。その艶やかな姿を籠の中から見た家康が「 あの横で畏まっている者は誰か?』と聞いたんだ。早速お側付きの侍が誰何するとこう応えたんだよ。
『私議、柳町に住む庄司甚内(まだ甚右衛門と改名してなかった)と申す遊女の長でございます。お殿様には先頃は奥州、また、このたび濃州へ御発向相成り、天下万民のために、かように御賢慮を尽させ給うこと、誠に有難き幸せ、私議、多年御城下に安住して御恩沢をこうむり、安楽に世渡り致して居ります賎しき者ではございますが、恐れながら御殿様の御冥加の為、且つこのたび御出陣の御武運の首途かどでを祝し奉る為に、ここにまかり出で、御供奉末々のお方様にお茶を差上げさせた次第でございます』とね。
これが家康の記憶に残った。それで翌年、意気揚々と江戸城に帰る家康軍に、同じく同じ場所で接待したんだ。家康は関ケ原ので圧勝があって機嫌が良かったからね、甚内に褒美を賜わったんだ。
これが彼のデッカイ勲章になった。
だから、新しい遊郭の地を拝領したいと幕府に申し出た時、おお!あの時の!となったんだ」
「すごいわね」
「願い出たのは慶長17年(1612)許可が下りたのは5年後・元和3年だ。拝領したのが此処だ。一面の葦原だったそうだ。庄司甚右衛門らがその葦原を干拓し、築造した地を江戸町1,2丁目・京町1,2丁目にしたんだよ。そして葭原を吉原としたんだ」
「すごい人だったのね」
「彼の碑は吉原弁財天本宮にあるよ」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました