見出し画像

東京散歩・本郷小石川#20/白山花街の話

白山花街の話をするには、R.A.A.の常務理事だった秋本平十郎の話をするしかない。
R.A.A.は、僕が20年来追いかけている終戦直後に立ち上がった米兵向け売春企業である。「特殊慰安施設協会」という。時の首相・幣原喜重郎の指示で作られており。創立運営資金は、内務省から日本勧業銀行を通して貸し付けという形でR.A.A.に渡された。担保となったのは既に紙切れ同然になっていた戦時火災保険金などの特殊預金だった。指導は警視庁が担当した。具体的には築地警察がその任にあたった。
R.A.A.の役員は理事長が宮沢浜治郎、副理事長は大竹広吉(闇の)と野本源冶郎そして常務理事は東京料飲組合の幹部が名前を連ねた。秋本平十郎はその常務理事だったのだ。
R.A.A.創設の采配を任された警視総監・坂信弥は、吉原などの遊廓に組織運営を預けず料飲組合に白羽の矢を立てた。これはある意味で達観だったが・・結果としては、ひと月あまりで同施設内に性病が蔓延し、米軍からオミットを食らい半年で実質的な機能を停止している。

R.A.A.開業一号店は大森海岸だった。1945年8月27日である。終戦から2週間経っていない。
続いて秋本平十郎の息がかかった白山三業地内に、米軍入城1945年9月8日を待って開業された。娼妓は40人あまり。しかしほどなく蔓延した性病のために閉鎖されている。
しかしなぜそれ程までに性病が蔓延したのか?南方戦地から米兵自身が持ち込んだのである。米軍兵士の罹患率は、コンマコンマ幾つだったものが、戦後半年余りで20%に達する勢いだったという。

何にせよ、秋本平十郎によるR.A.A.施設開業が、白山花街の再興に繋がったことは否めない。昭和33年の売春禁止法成立まで、白山花街は華やかだった。しかし時の栄枯盛衰はあるものだ。地元大地主でもあった秋本平十郎が凋落すると共に、彼の土地は細かく分割されて販売された。そのおりに彼が建立した火伏不動尊も取り壊され(平成18年)てしまった。
それでも相変わらず、この一帯は花柳界だった香りを今でも残している。幾つか残る黒板塀、そして細い路地と石畳の歩道と坂道が続く風情ある町の姿だ。

僕が街歩きに携えているのは、加藤政洋氏の「花街 異空間の都市史」である。
https://www.amazon.co.jp/%E8.../dp/4022598859/ref=sr_1_12...
同書で加藤政洋氏はこう書く。

『指ヶ谷町の一画に白山花街が誕生したのは、明治45年だった。明治40年代8回にもわたって土地発展のためとして、三業地の指定を警視庁に願い出た人物がいて、それが秋本平十郎の父、鉄五郎だった。地元の繁盛する料理屋を経営していた彼は、「酒席の興にそえるには芸妓がいなくてはならぬ」と思いたち、鳩山和夫(一郎の父、威一郎の祖父)や地元選出の市会、区会議員など政治家の支援を受けて、設置運動を行った。馬車に乗り遅れまいと花街の創設を見越した者たちが続々と寄り集い、矢取女という私娼を置いた揚弓店、酒よりも女色を売り物にした銘酒店、料理店などを先を争って開き、白山はお色気が充満した盛り場に変身した。そして明治45年、期待通り花街開設指定地の許可が下りる。鉄五郎は手廻しよく三業組合を組織し、念願の花街の門出がここに実現した。』

その鉄五郎のあとを継いで花街を取り仕切り、飛躍的に発展させたのが秋本平十郎だった。彼の「白山三業沿革史」が面白い。
https://www.amazon.co.jp/%E7%99%BD%E5%B1%B1.../dp/B000JALLKO

しかし、ここで大きな疑問が残る。R.A.A.である。理事長・宮沢浜治郎/副理事長・大竹広吉は、性病が蔓延しビジネスに先がないと見るや、第一勧銀から借りた3000万円(当時200億程度か)で、土地を買いまくった。そしてその所有不動産を管理する会社を立ち上げて、主要役員を此方へスライドさせ、R.A.A.そのものは実質的に麻痺状態まで追い込んでいる。つまり3000万を原資に膨大な資産を形成しているのだ。・・秋本平十郎は、その余禄を殆ど得ていない。・・何があったか?きわめて興味深いところだ。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました