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夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩6-06/ディジョン#06

https://www.youtube.com/watch?v=78cwo7RV_po&t=10s

ディジョン考古学博物館Muséearchéologique de Dijonの二階と三階を散策した。三階は先史時代のコレクションも多数あった。
「先史時代からの町なのね、ディジョンって」嫁さんが言った。
「ああ、古くからヒトらが暮らした地だ。でも決して便利なところではない。ウシュ川l'Oucheとシュゾン川l'Suzonからも遠い。しかし泉が有った。原始林の中に佇む泉だ。ヒトはそこに集ったんだろうな。
そこにケルト人が入り、そしてローマからの移植が入った。紀元前200年ころからだろう。しかし資料は僅かだ。実はよく分からないんだ。それでもケルト人たちの要塞は有った。ここはガリア時代からパリとリオンを繋ぐ交易のハブだったんだよ。」
「その時の名前がディジョンという町の名前になったの?」
「と言われてきた。Divion,あるいはDigonという名前だ・・と。divはね、噴水を指すケルト語だ」
「記録は? ないの?」
「ケルト人は文字を持たなかった。だから、ない。史料として残っているのは、6世紀に入ってトゥールのグレゴリウスが書いた『歴史十巻』が初出だ。グレゴリウスはガロ・ロマーナの歴史家だ。メロヴィング朝のときにアウストラシアのトゥール司教だったひとだ。『歴史十巻Decem Libri Historiarum』の中で、ディジョンは「神聖な市場」を意味するディヴィオDivioまたはディヴィオーネDivioneが由来するとある。
1861年に出されたJ.Goussardの本『New Picturesque Traveler's Guide to Dijon』には『ディジョンという名前は古いケルト語である。ディヴィオン、ディゴン、ディジョンはすべてガリア語の名前である。点在する「泉」を指している』とあるから、この頃には既にフランス語化してDIjonになっていたんだろうな」
https://www.amazon.co.jp/Nouveau-Guide-Pittoresque-Voyageur-Dijon/dp/0270800379
「フランス語化?」
「フランス語化は割と遅いんだ。もともとは俗ラテン語が共通言語だった。支配者となったフランク族を含む連中も公式公用語はラテン語だったからな。しかし地元の農民たちが話していたのはゴール語Gaulishだ。そこに支配者たちの言葉オック語などが混ざって、それが俗ラテン語を取り込んで方言化して土地の言葉になるんだ。そういう初期のフランス語はオイル語langue d'oïlといわれてる。17世紀、フランス政府が正式にアカデミー・フランセーズという団体を作って、ここが標準語としてのフランス語を整備するんだ」
「なるほどねぇ~フランス語って出来て300年しかたってないのねぇ、びっくり」
「ん。このフランス語化で・・Divioneの"i"が"j"に替わる。それでDIvjoneだ。そしてDijonになった」
「ディヴィオンがディジョンになったわけね.なるほどねぇ~ということは・・この修道院が出来た頃は、まだDijonではなかったのね」
「ん。おそらくディヴィオDivioあるいはディヴィオーネDivioneだったろうな。それどころか違う言語の国だったんだよ。それを忘れないように」
「あ、そうか。そうよね。思い込みって怖いわね、今のこのままのディジョンが2000年前もあったように思いこんじゃうわ」
「ん。2000年前、ここは異国だ。ガリアの国だ。たしかにローマの居留地は各所に有った。彼らが使っていた言葉は俗ラテン語だ。布教者が使う言葉と一緒だ。だからキリスト教布教者たちが居留地内のローマ人相手に信仰を説くことはできた。しかしもし土地の人/ガリア人を相手に布教するなら・・そうはいかない。布教はいつでも必ず言語と風習に、正面からぶつかってしまうんだ」
「たしかに・・そうだわ。知らない国から知らない人がきて、唐突に知らない神様がくれるご利益の話をされてもねぇ~と云うことよね」
「ん。だから初期のキリスト教布教者たちは全員奇跡を起こす。そして殉教する」
「奇跡?」
「ん。超常的なことを起こして、人々を驚異させる。病気を一瞬に治したり、天変地異を思いのまま動かしたりする。殺されても死ななかったりする。それが奇跡だ」
「え~ちょっと待って。それって・・私は、奇跡が起こせるから、私の話は正しい・・という話??」
「ん。あるいは私に従えば、あなたも奇跡を起こせるようになる・・という話だ」
「怪しくない?」
「いまならね。でも2000年前だと怪しくはなかった・・布教者の必須アイテムは"奇跡"だったんだよ。だから布教者たちは誰もがホイホイと奇跡を起こした。その奇跡に人々は平伏したんだ。これって、きわめて直截的な効率良い布教テクニックだと思わないかい?イエスも良く色々な奇跡を起こしたが、布教者たちも彼の弟子として、しばしば奇跡をガリア各地で起こしたんだよ」
「・・そう・・この修道院Cathédrale Saint-Bénigne de Dijonのサン=ベニーニュもそう?」
「ん。彼も奇跡を起こし、そして殉教したことになってる」
「え。したことになってる・・って、実在しないの?」
「ガリアに広がった初期の殉教者たちは、言い伝えだけで傍証的な記録が残っている人は極めて少ない。本質はキリストと同じで、いたという話は、話として残っているが、傍証となる客観的な証拠はない。あくまでも、居たという話が有ったという話だ」
「あ~いつもの話ね。詳しく精緻にリアルに作り込まれているけど、話の中に出てくる事実には、残念ながら何も傍証がない・・という話ね」
「ん。あの日ゴルゴダで行われた処刑は、もし処刑が行われていたら、資料としてローマ側に残っていたはず。しかしそんな資料はない。・・それとおなじだ」
「じゃあ誰が、この修道院とサン=ベニーニュを結び付けたの?」
「ここを修道院Cathédrale Saint-Bénigneとして確定したのは、クリュニー修道院長だったマイユルという人だ。彼が弟子のウィリアム・オブ・ヴォルピアーノを此処の修道院長に指名した。990年だ。これは当時書かれた史料に残っている。彼は26年かけて此処を完成させている。それまではラングル司教の個人修道院だった。511年に興されたと云われてる。サン=ベニーニュの聖遺品はここから引き継がれたことになっている。
当時に起こされた史料でCathédrale Saint-Bénigneの名前が出るのは、この990年が初出だ。これより前のサン=ベニーニュの話は・・誰かがそう言ってた。という所謂伝説でしかない」
「ふうん。ところで、ラングル司教って?」
「あ~ラングルLangresは行ったことないな。ディジョンからだと60kmくらい北にある。フォレ国立公園Parc national de forêtsの右隣だ。場所としてはシャンパニューの一部かな。
太古はガリアの要塞都市があったところだ。カエサルのガリア戦記の切っ掛けになったリンゴン族の首都だよ。カエサルも出征時は此処に滞った。早くからローマ化された町だ。しかし産業的な利点はなくてね、政治的な既得権だけの町だ。それもあってラングルの司教は猛烈な特権階級でね。みんな貴族の称号を持っている」
「行ったの?」
「ん。Musée d'Art et d'Histoire(Pl. du Centenaire, 52200 Langres)に行った。混沌の作家Denis Diderotの親族が残した美術館だ。近くに行ったからな。この間寄った」
http://musees-langres.fr/
「ふうん、あまり興味はなかったのね。きっと」
「・・いやラングルチーズは美味しかったよ。素晴らしいウオッシュだった。発売されたばっかりのルイ・ロデレールのコトー・シャンプノワとは相性よかったよ。ただそれだけ。
え~と、その栄華を誇ったラングル司教座の司教が持っていた個人修道院がディジョンにあった・・というわけだ。ところがこの修道院は呆れるほど退廃していてね、呆れ返った地元のクリュニー修道院が取り上げて自分の管理下にしたのが始まりだ」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました