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悠久のローヌ河を見つめて06/葡萄とともに西進したアロブロゲス族

民族移動の回廊だったローヌ渓谷に暮すアロブロゲス族は、紀元前5世紀ごろから錫を求めて峠を越えてくるローマ人の影響を受けて急速にローマ化した。混血も繰り返されて、特異なガロ・ロマンと呼ばれる文化を花開かせた。このアロブロゲス族だが、ローヌ渓谷からジュネーブ、ウイーンまで広がる人々で、山の民らしい独立独歩の気質が高い人々だった。
同時期に同じくローマ化されたボルドー地区と比べてみると、その気質の差は明確だ。ボルドーに暮していた人々は、カエサルのガリア侵攻を然したる抵抗もなく受け入れた。むしろ歓迎した。しかしローヌ渓谷周辺の北のケルト人は強く抵抗した。同じくカエサル到来以前よりガロロマン化していたのにも関わらずである。
カエサルは、ソーヌ川中央のガリア人から「要請を受けた」という名目でローヌ川を北上しガリアの地へ侵攻したのだが、実体としては自立自尊するガリア人たちを最新技術を背景とした武力によって制圧したのである。
アロプロゲス族は、本性の部分で"奉ろわぬ民"だったようだ。
ちなみにハンニバルの巨象軍団がアルプスの峠越えをしてローマに侵攻した時、峠で彼らの先頭に立ったのはアロプロゲス族だった。ローマにとって、アロブロゲス族は手強い厄介な被支配民族だったに違いない。

そのアロブロゲス族が、ローマに対して圧倒的に優位な「素材」を持っていた。それは寒冷耐用種の葡萄である。
ローマ人の葡萄は、アルプスを越えて育たない。それどころからアルプスにぶっかって反転し、地中海沿岸に吹き荒むミストラル(北風)の中でも、地中海海岸部でも、温暖種の葡萄の木が冬を越すのは至難だった。
しかしアロブロゲス族の葡萄/アロブロジカ種(後代シラーと呼ばれるようになる品種)は可能だった。これは圧倒的な優位点である。
なのでローマは、恭順の意思があるアロプロゲス族については、自分たちの手でワイン製造することを認めていた。もちろんローマが認めた生産者の大半は、ガリア・ロマーナ(ガリア人とローマ人の混血)である。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました