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悠久のローヌ河を見つめて09/アラゴン王国

最初の千年紀。地中海。イタリア半島以西/イベリア半島に至る地域を見つめると、ローマ属州以降は、まさに揺籃と云うに相応しい経緯を辿った。現在でも同地を歩くと、色濃くスパニッシュの影を見るのは、やはりこの時期の影響だろうと僕は思ってしまう。地中海沿いのフランスはスペイン的だ。

この時期に、イベリア半島から持ち込まれた葡萄がムールヴェードルである。ローマからナルボンヌへ移植した人々は、イタリア半島原産の葡萄と共に、このイベリア半島から来た葡萄を好んで植えた。
理由は二つ。ひとつは寒さに強いこと。もうひとつは甘味である。
ムールヴェードルはイタリア産中北部にある葡萄より、明らかに甘味の点で優れていた。当時「美味しい」というのは「甘い」と同義語だった。だから甘味の際立つムールヴェードルは、とても人気がある葡萄だったのだ。

ところがローマ帝国が凋落したのち、同地を制圧したゴート人たちは農業に冷淡だった。そのために同地での葡萄栽培は急速に凋落してしまった。結果として考えると、トゥルーズの峠を抜けてボルドーの港へ交易用に運ばれていたナルボンヌ周辺のワイン産地が凋落することで、自産を余儀なくされたボルドー地区が急速に作付け面積を広げて行くのだが、その話は別稿で・・

ゴート人は東から来た人々である。
最初はローマの傭兵として同地に入った。しかしローマが弱体化すると頭角を現し、ローマに牙を剥いて巨大なゴート王国を築いたのだ。ゴート王国は、ピレネー山脈を越えてイベリア半島まで広がったが、700年代になるとイベリア半島側に生まれたイスラム帝国/ウマイア朝(サラセン人)が台頭し、イベリア半島側の西ゴート王国を滅ぼしてしまった。そしてそのままピレネーを越えて、イタリア半島以西の地中海全域へ侵攻した。これを押し返すために立ち向かったのが、当時ガリア側で大きな勢力になっていたフランク王国である。この戦いは一進一退を為し、趨勢がフランク王国へ向かうまで100年あまりを要した。
プロヴァンス伯の始祖であるアルル伯ギョームComte Guillaume,le liberateurがサラセン人を完全に駆逐したのは973年。彼によってイタリア半島以西/イベリア半島は、フランク人ブルゴーニュ公国のものになった。
ここに至るまでの100年間、サラセン人たちは徹底的に同地の歴史的遺産を破壊した。自分たちの世界に替えた。そのためフランスの史家は、この時代をSarasins et Periode d'ombre「サラセン人と闇の時代」と呼んでいる。
しかしこの時期、サラセン人が持ち込んだ農作物(葡萄を含む)ハーブ(薬草)は、同地に根付き、現在でも南フランスの文化として息づいている。

そのプロヴァンス伯が強くピレーネ山脈の向こうに関心を示したのは、アラゴン人が台頭したためである。
彼らが作ったアラゴン王国は、イベリア半島北部のナヴァラ王国から別れて成立した振興国である。キリスト教国家で、イベリア半島南部を占めていたモスレム勢力との戦いを国是としていた。レコンキスタ運動だ。プロヴァンス伯はこれに強く共鳴した。プロヴァンス地区も、地中海沿いに断続的に繰り返されるモスレム勢に悩まされていたからだ。
その"聖戦"のために、プロヴァンス伯はバルセロナ伯と共にアラゴン連合王国へ参与。一大勢力になって行く。
アラゴン王国は、のちにカスティリャ王国と統合され、スペインになって行くのだが、ピレーネ山脈より以東の地中海側は1349年にフランス王国に売却、再度フランスのものになっている。
この時代に、イベリア半島から持ち込まれた葡萄がグルナッシュである。
グルナッシュは、ゴート人によって荒らされ放置された葡萄畑へ、プロヴァンス伯の臣民が、ムールヴェードルに替わって積極的に植えた。なぜ"積極的"に植えられたのか?それについては次回触れたい。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました