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悠久のローヌ河を見つめて21/おまけ・どうやって支配者は税金を取ろうとしたのか

ガリア人の森へ侵攻したゲルマン諸族の中で、フランク族が圧倒的優位を掴んだのは、王クローヴィスがキリスト教という最新技術を持った宗教組織を取り込んだから・・という話をしています。彼はゲルマン諸族間のガリアの地争奪戦を聖戦にすり替えてしまった。これによって先住民であるガリア人/ガリアロマーナ人たちの圧倒的支持を受け、欧州大陸は最初の千年紀半ばから、じっくり時間をかけてフランク王国のものになっていったわけです。

フランク人は、フランク王国を整備するにあたって、法の明文化を行いました。そのためにローマ法を取り込んだ。ローマ法は、当時既に完成していました。非常に優れた法体系です。
しかしフランク人の出自は、ゲルマンです。狩猟民族で、協栄という思想ではなく制圧/略奪の伝統と風習を多く残している人々です。
したがって国家構造は「支配者」と「被支配者」という二元構造ですね。"貴族と平民"とも言いかえられますね。これに"教会"組織が加わる三元構造です。
ではどの位の人口構成だったかと云うと、以下のような数値が算出されています。
第一身分/聖職者・10万人
第二身分/貴族(家族を含む)・40万人
第三身分/平民(家族を含む)・2500万人
ざっくりと見て総人口3000万人の国家を、1.6%の50万人で支配していた訳です。
狩猟民族的な気質を多く残す人々なので、ローマと違って支配者が「税」を払うことはない。したがってフランク王国は平民たちが納める税で成り立っていました。

ここでこの「王が徴収する」税とは何か?について、少し突っ込んで考えてみましょう。
"Lesresources du pouvoir royal"は二種類です。
一つは"Les droits"ですね。王の権利です。
「王の権利」とは、支配者である王が被支配者にオノレの土地を貸し出すことで得る賃料(租税)/財産権です。フランス語の"法"は、このdroitsという単語を使います。つまり王の権利が"法"な訳です。これはそのまま荘園制度の中にも取り込まれ、貴族たちはオノレの土地に住む平民(農民・商人・職人)から租税を取り立てて良いという「理由」になっていました。
しかし最初の千年紀の終わりになると、こうした「権利としての租税」だけでは国家経営が成り立たなくなってしまった。それなので、新しい「間接税」とも云うべき税制がこれに加わりました。insinuationとかcontroleとかtimbreとか呼ばれる"centieme denier"です。謂わば登録税ですね。流通に関わる"登録"に課税するという発想です。つまり「我が土地で取引されるもの全てに我は権利を持つ」という発想です。これはかなり強引な理屈ですが、ローマ時代にも「間接税」は存在していたので、その変化球として王の権利の一つにされたのです。
この二本立てが、フランク王国における支配者たちの"Lesresources du pouvoir royalだったわけです。
つまり、第一身分/教会も第二身分/貴族も「支配者」側なので、課税権利は有っても納税義務は無かった。
納税はあくまでも平民(農民・商人・職人)が行うものだったのです。

しかし次の千年紀に入ると、それでも賄えなくなってしまった。
原因は、貴族たちの度を越えた豪華な生活と、公的土木工事/建設の巨大化。そして十字軍です。たしかに十字軍と云う名の略奪戦争は、膨大な利益を諸侯にもたらしますが、準備のための戦費は必要です。その戦費徴収を理由に行われたのが「サラディンの十分の一税tithe」です。1198年にフィリップ・オーガスタス(フィリップ二世)によって実行されました。
しかしこれはローマ法から考えると、間違いなしの越権です。王の(支配者の)所有権から派生していませんからね、それは権利の濫用です。この濫用を合法化させるために、聖職者/貴族/平民が集う「三部会」なるものが考えだされました。つまりこうした課税は、納税者から同意を得たものであるという擬態を取ったわけです。
これは現在でも租税法律主義として生きており「条文に規定がないと課税できない」とされています。
こうして「三部会」なるものが登場しました。
とは云っても、所詮擬態なので・・つまり徴収対象は三つの身分のうち、唯一平民なので・・以降かなり強引な「王の本来の権利/家賃収入」とは別個なものが次々と登場しています。
なかで一番有力だったのが「国債emprunts」です。国債は強引に商人たちに押し付けられました。今の政府が民間金融機関に押し付けるのと同じ論理です。そしてこれに派生して臨時税impotが生まれました。これは「御用金aides feodales」とも云うべきもので、以降さまざまな理由で王と貴族たちは臨時税の徴収を行っています。

①領主の当然の権利としての「租税」
②民の了承の上の「課税」
これが、ローマ帝国崩落後のヨーロッパ各国が取った税制の二大分類です。

そして時代を経ると共に②の金額が大きくなる。同時に納税者である「平民」の権利意識も大きくなる。
平民(豪商)の間に、教会/貴族に対する不平等感が大きくなっていく。
そしてそれが「神は教会の独占物ではない」遍く人々の心の中に有るという、新しいタイプのキリスト教/プロテスタンティズムを生み出して行く原動力になります。

さて。②のための三部会ですが、カトリックが強いフランスでは、教会/貴族が強く、平民(豪商)の参加は形骸化していました。しかしプロテスタンティズム/のちに英国国教が強いイギリスでは、平民たちが強かった。マグナカルタの成立は、まさにその典型的な例だと云えましょう。このマグナカルタについては「岩波講座・現代法8」の中に「市民と租税」という項が有りますから、もし宜しければ目を通してください。財政民主主義という考え方の背景が手に取るようによく判ります。
財政民主主義とか租税法律主義を語る時に、やはり欧州の租税の歴史について考察するのは危険だなと思うようになると僕は考えます。ここでは余談ですが。

フランス革命の発端も、この三部会における不平等感から生まれたものです。聖職者10万人/貴族40万人に対して、2500万人の平民が、一部豪商から資金援助を受けて起こしたのがフランス革命です。
したがって革命成立後の教会/貴族たちの財産の分配は、資金源である豪商たちの代表者によって行われ、大半が彼らのものになっています。
ところで、これも余談ですが。翻って日本の革命(維新)を考えてみると、革命を起こしたのは地方の下級武士が中心で、士農工商で云うなら、士分の反乱でした。欧州における三身分中の平民の反乱とは全く別物なのが特徴です。
彼らの資金背景は、士農工商/中の商からではなかった。海外の豪商からだった。結局この"地方藩の士分による反乱"だったことが、明治維新後の体制に、各部分まで色濃く「藩制」が残る結果を残してしまったのではないか?そんな風に思っています。日本が疑似社会主義国家なのは、この色濃く残った「藩制」のせいではないでしょうか。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました