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夫婦で歩くシャンパニュー歴史散歩5-2-3/ドン・ペリニオンから見えるもの・シャンパニュービジネスについて

https://www.youtube.com/watch?v=hldQPk5bVYo

Royal Champagne Hotel & Spaで早い朝食を進ませてtaxiでオーヴィエ村Hautvillersへ向かった。
「ベニスで話した黒死病の話を憶えているかい?」
「ペストでしょ?」
「ん。中東から持ち込まれた絨毯に付着していたものだ。1346年から始まって1350年代を中心に欧州全土を覆った伝染病だ。欧州人の1/3が亡くなった。・・実はその直前、北部欧州は大飢饉に襲われている。1310年から 1330年にかけてだ。インドネシア中部リンジャニ山が1257年に大爆発を起こした。この影響で、異常気象が世界を覆ったからだ。この二つのパンチで村は荒廃した。」
「荒廃って・・エペルネーが?」
「ん。例外はない。エペルネー・・も、だ」
「なるほどねぇ~エペルネーも・・ね。で、どうしたの?」
「葡萄畑は荒れ切った。ローマ人が熱心に慈しみ育てたシャンパニューの葡萄畑は、無残に雑草だけの荒廃地になったんだ。・・1000年代と言えば十字軍があったろ?」
「ええ」
「十字軍に首を突っ込んだ民は、ほとんどが帰って来なかった。みんな死んだんだんだ。まあ、十字軍そのものが日本の江戸時代にあった「ええじゃないか」騒動と一緒でね、どうしてもニッチもサッチもいかなくなった連中が何もかも投げ捨てて聖地エルサレムに怒涛のように走った事件だからね。
全て放り出して、略奪を繰り返しながら突き進んだ連中は大半が野垂れ死んだんだ。
そして・・死んじまうと、その連中の土地は自動的に修道院のモノになった。だから畑の持ち量は増えたんだがな・・今度は、何回も続く十字軍に参加した奴らが乞食のように戻って来て、中東でやったような簒奪者/暴徒になってヨーロッパ各地で修道院が管理する畑や村町を襲ったんだよ」
「酷い話ね」
「前にフィリピンで災害があったとき、世界から救援物資を持った団体が同地を訪ねただろう?あのとき、被災者たちは徒党を組んで訪ねてきた救援団体を各地で襲ったことがあったろ?」
「ええ、憶えているわ。飢えれば人は悪鬼になる・・とあなたが言ったことも」
「まさに1300年代からの北方欧州はそれだった。大きな市が開かれ、貿易は隆盛を誇りながらも、国の中の貧富格差は、あなたの云う通り百鬼夜行が走る時代だったんだよ。しかし・・それでも・・だからこそ我慢強く葡萄畑を守ったのは僧侶たちだけだった。モノの道理を伝える修道院だ。
悪行との戦いが修道院の試練だ」
アメリカの社会学者Immanuel Wallersteinが、彼の"The Modern World-System: Capitalist Agriculture and the Origins of the European World-economy in the Sixteenth Century,"第一巻で詳しく分析している。


1600年代は、大航海時代を迎えていながらも、30年戦争を見るように国家は戦争のために民ではなく国を守った時代だった。相まって世界は小氷河時代だった。寒く暗い不作の時代が続いた。貿易と通商は増えても国は戦争と王の簒奪で衰えた時代だったのだ。

ドン・ペリニオンDom Pierre Pérignon(1638-1715)がサン ヴァンヌ修道院に僧侶として入ったのは17歳のときだった。1654年だ。サン ヴァンヌ修道院はヴェルダンVerdun-sur-Meuseにあった。ベネディクト派だ。
ベネディクト派はね、勤労奉仕をとても重要なものにしている。清貧と勤労だ。彼らはWallersteinが言うところの"17世紀の危機"に敢然とた立ち向かったんだよ。当時はまだヌルシアのベネディクトゥスの戒律を正しく守っていたしな。」
「まもって・・いた?」
「うん。その話はそこで止める。またまた散らばる。ベネディクト派は自給自足体制を規範とした労働倫理だったから、これが中世欧州の荘園経済へ繋がったんだ。ドン・ピエール・ペリニオンDom Pierre Pérignonはそのど真ん中にいた。彼がサンピエール・ドーヴィエ修道院に転勤したのは1668年だ。ワインセラーの責任者として就任した。29歳だ。以降、亡くなるまで38年間、彼は此処でセラー責任者として生きたんだ。サンピエール・ドーヴィエ修道院のワイン畑は彼の努力で、38年間で約2倍になった」
「なるほどねぇ。ベネディクト派だったからこそ出来たことなわけね」
「ん。当時、僧侶であり研究者だったドン・ティエリー ・ルイナールDom Thierry Ruinart(1657–1709)という人物がいた。殉教史の研究者だった。各地の修道院を歩いた人だったが、彼がサンピエール・ドーヴィエ修道院へドン・ピエール・ペリニオンを訪ねたことがあった」

「ドン・ペリニオンはそんなに知る人ぞ知るで有名だったの?」
「ん。ドーヴィエ修道院の葡萄生産量を急速に拡大した人だったからな。ルイナールは醸造学にも精通していてね、ワインの売り上げが修道院の運用にとても重要なことを完全に理解していたんだ。ピエール・ペリニオンとルイナールは意気投合した」
「ルイナールさんの方が若いんでしょ?」
「19歳年下だ。若き研究者と現場で叩きあげた学究者の出会いだ」
「すごいわね」
「ちなみにルイナールが亡くなった20年後1729年に彼の甥っ子ニコラ・ルイナールがルイナールとピエール・ペリニオンの研究成果であるシャンパンハウスを立ち上げているよ。」

https://www.lvmh.com/houses/wines-spirits/ruinart/

TAXIをRue des Buttesがd386とぶつかる三叉路で降りた。右側にドン・ペリニョン公園Statue Dom Pérignon(168 Rue des Buttes, 51160 Hautvillers)がある。クルマを降りて少しだけ階段を上るとドン・ペリニョンの像がある。ワイングラスを持った明るい姿だ。
「あれ?こんなのなかったわよね?モエの玄関のドン・ペリニオンを作った彫刻家が作ったの?」
「いや違う。最近つくられたモニュメントだよ。この公園と一緒で、出来立てホヤホヤだ。そうか・・考えてもみなかった。たしかにキャラがモエのドン・ピエール・ペリニオンそのままだな。似てるな・・」
「こんな人だったの?」
「わからない。ドン・ペリニョンの肖像画書かれたのは1900年代初めのモエのポスターからだ。この時の絵が以降そのまま彼のキャラとして使われている。モエ以外ではChampagne Georges Cartierのcaveにも掘られているが、これもいつ掘られたかどうかわからない。Verdun-sur-Meuseにもあるがこれもモエのが使用した絵をベースにしてる」
「よ~するに当時の彼を書いた絵はないのね」
「ない。西郷隆盛みたいなもんだ。上野の西郷さんもベースになる絵がなかったから兄弟の写真から起こした。除幕式の時、奥さんが『誰?これ??』って言ったそうだ。
・・まあ、上野のサイゴーさん見た気分で、修道院に向かって歩こう」
「はいはい」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました