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夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩5-07/バスを使ってジュヴレ・シャンベルタン歩き#07・番外04

https://www.youtube.com/watch?v=gvJnpjpdnf8

「ローヌ川が地中海へ注いでいる地はマルセイユのすぐ傍だ。ローヌ川が錫のロジスティックルートと発見されるとマルセイユは俄然勢いづいたんだ」
「マルセイユはローマの一部だったの?」嫁さんが言った。
「いや、まだ属州にもなっていない。マルセイユがガリア・ナルボネンシスGallia Narbōnēnsisとしてローマに属州化するのは紀元前121年からだ。それでもイタリア半島と地中海で繋がっている街だから、早くからローマ化されていた。大プリニウスが『博物誌』の中でナルボネンシスの貴族や民衆は洗練されたローマ人として振舞っており「属州というよりはむしろイタリアである」と書いているくらいだ。
その傍らローヌ川に北東アルプス山脈で手に入れた錫が船で運ばれてきたわけだ。ローマ商人たちは「してやったり!」と露ローヌ川を遡上して商いの輪を広げたんだよ」
「すごい商魂ね」


「実は、マルセイユにも葡萄畑が有った」
「え~!イタリア半島だけじゃじゃないの?」
「もちろん交易用ワインの大半はそうだ。でも、マルセイユでもワインは作っていたんだよ。マルセイユの町を作ったのはギリシャのフォカイアから移植した人だからね、彼らはこの地へ移るとき、ギリシャから葡萄の木もワインを作る技術も持ちこんだんだ。・・いまのラングドックルションあたりだ」
「そんなに古い歴史が有ったの?」
「実は、つい最近彼らの畑が発見された。マルセイユのそばでね。紀元前425年のものだ。小さなワイン圧搾機、ブドウの穂や小枝、そしてワインが入っていた地元のアンフォラが発掘されている。アンフォラの一部は、エトルリア式にコルクで密封されていた。・・実はこのアンフォラだ。フォカイア人はギリシャ式のアンフォラ・マサリオテを製造する能力を持っていた。マサリオテは軽量で、ローマ人たちが運んで来るアンフォラより遥かに軽量だったんだ。
ローマの商人はワインとマサリオテを買った。安くね。そしてジブラルタル海峡を越えて売りに行ったんだよ」
「自分たちで航海したわけじゃなくて、ローマ人に売ったわけね」
「ん。そこに・・一方通行だが新しい錫を手に入れる道が見つかった。ローヌ川がまさかスイスのレマン湖まで繋がっているとは誰も思わなかった。そこから船で錫鉱が運ばれてくるなんてね」
「びっくりしたでしょうね」
「ローヌ川は早くからガリアとの交易ルートとして存在していたんだよ。ワインを物々交換する交易も以前からあった。しかし、これに拍車がかかったわけだ。ローヌは我々が思っている以上に奥深くガリアの町へ繋がっている・・ってね。それで紀元前300年くらい前からローマの商人たちはドンドンと川を遡上し始めたんだ。おそらくその商人たちの中に、多くのフォカイア人の血を継ぐ人々が混じっていたと僕は思う・・彼らの移動と共に葡萄畑が各所に出来上がっていったんだ」
「イタリアから持ち込まれた葡萄じゃないの?」
「ちがう。耐寒冷種だ。イタリア半島の葡萄は寒さに耐えられない。だから広がったのはフォカイア人たちの葡萄だ」
「なるほどねぇ」
「ワインは交易のための通貨だからね。交易場所に近い所で生産できれば、これに越したことはない」
「だから葡萄畑はどんどんローヌ川の奥へ奥へと広がったわけね」

「当時最大の交易センターはシャロン=シュル=ソーヌChalon-sur-Saôneにあった」
「あ、旧い交易所が有ったところね、ヴォーヌ村のワインが運ばれた所ね」
「ん。シャロン=シュル=ソーヌは、リヨンから直進するソーヌ川の麓だ。リヨンからは120kmくらい北になる。古代はカヴィロヌムCavillonumと呼ばれていた。古いガリア人の都市だよ」
「え~ガリア人の町だったの?」
「ん。ガリア人同士の交易は、主にソーヌやセーヌ/ドナウあるいロワールという大河をベースに行われていた。ガリア人はローマ人が考えるような未開の人々ではない。彼らなりの文化を見事に作り上げていた人々だった。
欧州各所に幾つもの交易ハブポイントを持っていた。いまのオルレアンCenabumやパリ Lutetiaがそうだ。カヴィロヌムCavillonumはその中の一つだ。
とくにカヴィロヌムCavillonumは、ロワール/セーヌとローヌを繋ぐ最短距離にあって、なおかつドナウともノビオドウノムNoviodunumで繋がっていた。大きなガリアのための交易都市だ。ローマ人はここにローヌ川南域で作ったワインをアンフォラで運んだ。そしてカヴィロヌムの市で商いをしたんだ。ワインは飛ぶように売れた」
ローマの歴史家 ディオドロス・シクルスDiodorus Siculusは彼の書Bibliotheca Historicaでこう書いている。
『ガリア人はワインに非常に中毒である。彼らはワインを混ぜずに、節度なくに飲んだ。酔うと昏迷または狂気の状態に陥る。ローマの商人たちはワインの瓶と引き換えに奴隷を受け取った』
「ワインは生で呑むものではなく、水で割って飲むものだからね。プラトンの「饗宴」にもそう書いてある。しかしガリア人はそれをがぶ飲みしたんだろうな。そして半狂乱になって暴れる。そして無くなると。自分の部下一人とワインひと樽と交換までしたそうだ。
ローマ人は彼らにアンフォラでは売らなかった。木樽に小分けして売ったんだ。樽はガリアの文化で、ローマ人のものじゃない。しかし、カヴィロヌムでは幅広く利用されていたという。樽に入れてワインを売った最古の例だ」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました