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東京散歩・本郷小石川#17/良家大家が立ち並ぶ本郷小石川

徳川慶喜が静岡から東京へ戻ったのは明治30(1897)年。明治天皇との会見のためである。二人はこのとき初めて会った。日清戦争が日本勝利として終わったのが明治27(1897)年。明治政府は膨大な賠償金を受け、漸う国家としての体裁が付き始めてはいたが、明治政府は相変わらず"徳川慶喜"というシンボルに対してナーバスな姿勢でいた。それでも慶喜を静岡に送り返さずに巣鴨へ隠棲のための仮住まいを置いたのは、慶喜が何の野望もなく飄々と趣味の世界に生きる事で日々過ごしていたからで、たとえ彼が周囲に担がれたとしても「眠れる虎」以上になることは、まず無いと見たからかもしれない。
いまの春日二丁目/小日向第六天町に慶喜邸宅を建てたのは明治44(1901)年。明治天皇との会見14年後のことである。その翌年に徳川家とは別に慶喜は最高爵位である公爵を叙している。派手な飾り付きの首輪ということ・・だ。
じつは、第六天町に隣は慶喜と共に戊辰戦争を戦った会津松平家の屋敷が有った。慶喜邸宅はその傍らに建造された・・半世紀近く過ぎて無為な流血を流しただけの「戊辰戦争」はようやく歴史上の話になっていったということだろう。勝った者は必ず官軍になる。

江戸市中が維新軍の支配下になった折、徳川家の所有地はすべて明治政府に取り上げられた。いまの後楽園辺りにあった水戸徳川家上屋敷は、陸軍(長州維新軍)が軍用地として徴収された。各藩の大名は横滑り的に県知事になった。それもあって大半の東京市内の屋敷は彼らに返還された(目白台の旧肥後熊本藩主細川家や西片の旧備後福山藩主の阿部家など)が、徳川家に纏わるものは大半が返却されずに明治政府のものになった。したがって慶喜に、静岡のような縁故の地は・・東京にはなかった。その慶喜の終の棲家が会津松平家の隣に建てられたことは、きわめて意図的なシンボリックだと僕は思う。

その、本郷/小石川あたりの空っぽになった屋敷には明治の重鎮らが入り込んだ。そのため千川両岸の高台には、徳川家 (一橋家)、松平家 (旧常陸府中藩主)、酒井家(旧姫路藩主)といった旧大名家に混じって、宮内大臣を務めた土方久元や大蔵大臣などを歴任した阪谷芳郎、三菱財閥の荘田平五郎、東京川崎財閥などか゜屋敷を持っている。三井家は明治20年に同地へ移り。以降三井小石川家を名乗っている。。
ちなみに春日にあった第三中学校(現・文京区立本郷台中学校)だが、同地が三井家から供出されたことに因むと云われている。たしかに三井家は先の戦災で焼失したが、焼失しなかった同校門辺りの風格は、学校というよりお屋敷風で素晴らしいところだったと地元の方に伺った。昭和は遠くなりにけり・・

山県有朋宮内大臣を務め田中光顕が屋敷を構えたのは目白台である。 「椿山荘」「蕉雨園」という風流な名前を付けているが。もともとは権威に託けた略奪品である。
山県有朋は大正後期に長州系財閥の藤田平太郎に譲渡へ譲渡した。田中光顕は豪商・渡辺治右衛門に譲渡したが、大恐慌で破産した渡辺家は講談本で財を成した野間清(講談社の創業者)へ売却している。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました