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「オアシス・オブ・ギンザ」は米兵専用のキャバレー/ダンスホールとして1945年11月2日にオープンした。

松坂屋の地下にあった「オアシス」の話を少し書く。「オアシス・オブ・ギンザ」は米兵専用のキャバレー/ダンスホールとして1945年11月2日にオープンした。

当時RAAは、エビスヤ・ビアホールの斜め前の千疋屋にキャバレーを持っていた。これを吸収合体し、ダンサー400名の大所帯のキャバレーとしてスタートしたのだ。
ここはダンサーたちと客(米兵)たちの自由恋愛(売春)を黙認していた。結局のところ、RAA慰安部が各所に持っていた売春宿と同じだったわけだ。
RAAキャバレー部の責任者だった林護は、「オアシス・オブ・ギンザ」のオープンに全身全霊を尽くした。そして同時に、RAA協会内で彼は挫折し続けていた。彼の立案した大半の娯楽施設は、協会理事たちから合意を得られず、実施されなかったのだ。
それでも彼は「オアシス・オブ・ギンザ」に全身全霊をかけた。
林護は脚が悪い。常に杖を使用していた。長時間の立ち仕事は辛かった。にもかかわらず林護は、現場に立ち、業者に指示し、様々なものを調達し、交詢社の中にあった、ダンサーのためのダンススクールにも足繁く通った。彼は何も全く手を抜かなかった。
オープン当日。壇上に立った林護は感涙に咽んだ。
しかし、その日を境に、林護はRAA協会に殆ど顔を見せなくなった。そして翌年早々にRAAを辞している。
おそらくだが。記録は残っていない。
まったく僕の推論だが。
林護は、彼が最初に作った千疋屋キャバレ―のダンサーたちが、自然発生的に"自由恋愛"を始めていたことを知っていたのではないだろうか。
ダンスチケットは1枚2円だった。ダンサーたちの多くは、築地の鰻屋宮川の寮に暮らしていた。仕事が終わって、ボロボロに疲れ切って帰っても、食べるものは何もないという生活をしていた。(ちなみに、そのことでダンサーたちはストライキをしている。ストライキを許す気風がキャバレー部には有ったのだ)
そんな彼女たちが、色々な贅沢品をプレゼントする米兵の魅力に、耐えられるだろうか?
僕は、哀しみながらも林護は黙認していたと思う。そして彼女たちと共に、林護は深く傷ついていったと思う。
さて。この「オアシス・オブ・ギンザ」だが。
高見順の日記の中ににこう書かれている。
「1945年11月14日
松坂屋の横に Oasis of Ginza と書いた派手な大看板が出ている。下にR・A・Aとある。
Recreation & Amusement Association の略である。松坂屋の横の地下室に特殊慰安施設協会のキャバレーがあるのだ。
「のぞいて見たいが、入れないんでね」というと、伊藤君が、
「地下二階までは行けるんですよ」
地下二階で「浮世絵展覧会」をやっている。その下の三階がキャバレーで、アメリカ兵と一緒に降りて行くと、三階への降り口に「連合国軍隊ニ限ル」と貼紙があった。「支那人と犬、入るべからず」という上海の公園の文字に憤慨した日本人が、今や銀座の真中で、日本人入るべからずの貼紙を見ねばならぬことになった。
しかし、占領下の日本であってみれば、致し方ないことである。ただ、この禁札が日本人の手によって出されたものであるということ、日本人入るべからずのキャバレーが日本人自らの手によって作られたものであるということは、特記に値する。さらにその企画経営者が終戦前は「尊皇攘夷」を唱えていた右翼結社であるということも特記に値する。
世界に一体こういう例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人間が自らいちはやく婦女子を集めて■■屋を作るというような例が--。支那ではなかった。南方でもなかった。懐柔策が巧みとされている支那人も、自ら支那女性を駆り立てて、■■婦にし、占領軍の日本兵のために人肉市場を設けるというようなことはしなかった。かかる恥かしい真似は支那国民はしなかった。日本人だけがなし得ることではないか。」

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました