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堀留日本橋まぼろし散歩#10/夢二夢散歩#04

松本楼の脇にある「首かけイチョウ」の横を通った。
「あら、お昼は此処にすればよかったわね」嫁さんが言った。松本楼は彼女が好きな店の一つだ。以前、仲が良いフランス人シェフが此処で食事会を開いたときは大喜びしてたな。あのときにウチも借り切ってやるか?と言ったら「めっそうもないわ」と首を振ってた。
「ずいぶん戻ったな。学生運動の煽りを食らって此処が全焼したときに、この木も丸焼けになったんだけどな。伐採しないでいたら翌年しっかり芽吹いたんだよ。2回目の安保騒動の時だ。僕は20歳だった」
「でもなぜ首かけ銀杏というの?」
「もともと、この木は公園の傍にあったんだ。此処を練兵場から公園に変えるとき、一緒に日比谷通りの拡張も計画されてな。伐採されちまうところだった。それをこの公園の設計者だった本多静六が阻止したんだ。東京市参事会議長だった星亨に直談判してな。ところが星は難色を示した。もうすでに大木だったし、移植するとなるとすごいお金がかかるからな。本多は費用は全て自分が出すと言ったんだが、それでも星は許可しなかった。そりゃそうだ。公的な工事だからな。そこに私的なお金を紛れ込ませるのは至難だよ。それに当時はこんな大木は移植して根付いた例がなかったんだ。本多が言ったんだ"私の首をかける。私の首をかけて根付かせる"ってね」
「頑固どうしの言い合いだったのね」
「ああ、明治の男の話だ」
「どのへんにあったの?」
「本多の本『体験八十五年』の中に、昔は樹のもとに立て看板あったと書いてるね。
"此ノ樹ハ元、日比谷見附内ニアツタノヲ明治三十五年本園建設ノ際移植サレタ。
当時此ノ様ナ大木ハ移植出来ナイモノトシテ金四十九円デ、払下ゲ地上六間迄切リ落サレテアツタモノヲ、林学博士本多静六氏ハ必ズ活着スベキコトヲ保証サレタ為、今ノ所ニ移植サレ、斯ク見事ニ生育ヲシテイルノデアリマス"
とね。昔の鍋島藩邸内。いまのフコク生命ビルあたりにあったようだ。諸説はある」

松本楼 銀杏も冬の 風の中


で。日比谷図書館の「龍星閣がつないだ夢二の心—『出版屋』から生まれた夢二ブームの原点」
面白かった。本郷弥生町にある夢二の美術館とは違う切り口で彼の原画が見られた。
ブックレットを買って、図書館を出た。
そのまま国会議事堂通りを銀座へ歩いた。フコク生命ビルの前を通って「あそこ」と指さした。それから有楽町のガードを抜けると花椿通りへ行ける。資生堂でお茶した。
「たしかに夢二は明治の終わりから大正にかけて大ブレイクしたが、時代は彼の見る世界からどんどんかけ離れていったからね。大正の終わりころ彼の人気は失速してしまったんだ。それにもう一度火をつけたのが"龍星閣"さ。前身だった『都新聞』にスケッチ21枚で『東京災難画信』を載せたのが始まりた。大正12年(1923年)だ。夢二は39歳になっていた。亡くなったのが49歳だからね。この龍星閣による『夢二再発見』は彼に僥倖だったと言えるな。念願だった洋行も果たしている」
「晩年は幸せだったのね」
「いやいや、夢二が不遇だった時なんてないよ。勢いに大小は有ったがいつだってチヤホヤされ続けた。敢えて言うならそれが彼の抱え込んだ不運さ」
「また、すごい言い方ね」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました