見出し画像

ベルジュラック09/サンテミリオン村歩き#54

https://www.youtube.com/watch?v=yQebJ417b7Y

早い朝食を済ませて町へ出た。昨日のベルジュラック市場Halle de Bergerac(14 Pl. Louis de la Bardonnie, 24100 Bergerac)へ、もう一度行ってみようと思ったからだ。土曜日は朝7時からやっているとのこと。ついでにその先にあるノートルダム教会Notre-Dame de Bergerac(4 Rue des Faures, 24100 Bergerac)の前で土曜日に開催されているマルシェMarché Bergerac(2 Rue des Faures, 24100 Bergerac)も見てくることにした
http://fnscmf.com/
雨はすっかり止んでいた。
「いいわね、マルシェはその町の姿が全部見えるから絶対チェックよね」と嫁さんが言った。
まあ確かにそうだが・・我田引水の部分もあるので笑って済ませた。

僕らは市場へ7時半ころに着いたので、まだすべての店は始まっていなかった。しかし客はそこそこ多い。町で暮らしている人々の買い物先なんだろうな・そんな印象だった。アーケードの中をぐるりと見た後に、そのままレジスタンス通りD704まで歩いた。ノートルダム教会まで出た。教会前のマルシェは思ったより大きかった。道路の一部を通行止めにして開催されていた。
「あ~こちらが買い物の中心なのね。農作物も加工品もこちらのほうが多いわ」
こちらでは何か買うつもりでいるらしい。
「9時半にVTCがピックアップにくるから、9時にはホテルへ戻りたい」
「はいはい」と返事はしたが態度は伴っていない。結局ホテルへ戻ったのは9時を大幅に過ぎてからだった。
VTCはロビーで待機してくれていた。昨夜と同じドライバーだった。M氏と呼ぼう。それでも何とかチェックアウトは9時半ぎりぎりに出来てようやく出発になった。
「もう忙しくて大変だわ。もっと余裕見て予定組んでほしいわ」と嫁さんが行った。
昨夜、土曜日はマルシェがあるとレセプションに教えてもらったら「朝、いく!」と言い出したのは誰だ・・と思ったが言わなかった。
「まずはご指定いただいたChâteau La Renaudieを向かいます」
車はD709を北進した。
「5km程度なので10分くらいで到着です」
Château La Renaudie(65 Chem. de la Renaudie, 24100 Lembras)
http://chateaurenaudie.com/

予約した10時には無事到着した。ガイドは女性だった。一時間ほどのツアーだった。何本かワインを買わせてもらった。
「ベルジュラックの中でもペシャルマンpesharmant地区は一番広くて、一番古いところだ。この町が整備され始めた1000年代にはすでにワイン畑が存在していた。一番最初に立ち上がったのはサン・マルタン修道院で1080年ころといわれている。ヴィネ・ノールという畑が開墾されたんだ。これがベルジュラックワインの始まりだ」
ワイナリーを出た後、N21に入った。南進した。しばらくするとドルドーニュ川を越えた。
「ベルジュラックの町を囲ってペシャルマンは大きく四方に広がっている。今回はペシャルマンpesharmantとソーシニャックsaussugnacそしてモンバジャックmonbazllacの三か所を駆け足で回るから、このままシャトー・ド・モンバジヤックChâteau de Monbazillacまで進もう」
10分ほど走ってD14を左折。周囲は葡萄畑しかない。そのうち右側にワイナリーらしき建物が見えた。
「シャトー・プルヴェールChâteau Poulvèreです。一般公開してますから寄りましょうか?」M氏が言った。小さなこじんまりしたシャトーである。

「シャトーてほどじゃないけど・・」嫁さんがぽつりと言った。30分ほどお邪魔して、ティスティングをさせていただいた。通訳はM氏がかって出てくれた。
「これは良いんじゃない?」と嫁さんが白Chateau Poulvere Blancを選んでいた。

https://www.wine-searcher.com/find/poulvere+blanc+bergerac+south+west+france/1/japan

ワイナリーを出ると、四つ角がある。
「前にあるお店はこのシャトーがやってます。食材が豊富です。こちらも寄りますか?」
L'échoppe du Château Poulvère(D14, 24240 Monbazillac)
http://haut-poulvere-sarl.lany.io/
確かにスーパーマーケット的な作りで嫁さんはこちらの方が気に入ったみたいだ。僕は野菜類でも買われたらどうしようかと思ってドキドキした。

シャトー・ド・モンバジヤックはこの角から5分も離れていない。
Château de Monbazillac( Rte du Château, 24240 Monbazillac)
http://www.chateau-monbazillac.com/
再度周囲は葡萄畑だけになる。そして唐突にシャトー・ド・モンバジヤックの鉄策の付いた門に出会う。僕らはここで降りた。
「ちかくにパーキングが有ります。城には此処から入ってください。クルマを停めましたら私も行きます。ご案内します」とM氏が言った。
歩き始めると、シャトー・ド・モンバジヤックは森を背中にして有った。
「すてきね・・でも、古臭くない」嫁さんが言った。
「16世紀半ばに作られた城だ。宗教戦争の真っただ中だよ。シャルル ディディCharles d'Aydieが建築した。彼はド・ギュエンヌ提督でリベラック副伯爵だった人だ。サルラアイルの司教だった。1584年に亡くなっている。城がルイ ド ブシャール ドーブテールLouis de Bouchard d'Aubeterreに買い取られたのが1607年。以降はユグノー教徒の拠になっていた時間が長かった」
「ユグノーって名前がよく出てくるわね。マルティン・ルターみたいに人の名前なの?」
木崎喜代治は『信仰の運命』で、ユグノーはスイスにいたという化け物ユゴン王のことだと言ってる。蔑称だ。同盟 eidgenossenが転訛してユグノーという説もある。ひとの名前ではない。フランスにいたカルバン派の人たちだ。ジャン・カルヴァンJean Calvin はフランス人だ。マルティン・ルターに匹敵するプロテスタントの提唱者だ。パリを中心に拡散し、次第に南に流れて広がった一派だ」
「それがカトリックと激しく対立したのね」
「ん。プロテスタントは神が教会の専売特許にされることを激しく嫌ったからな。どうしてかというと民が豊かになったからだよ」
「民が豊かになった?」
「欧州の権力構造は、ローマが崩壊した後、ゲルマン人の侵攻を受けた欧州は、王が領土の支配者で資産財産はすべて王のもの・・という国家構造になった。そして、そこにローマから教会が入り込んでくると、王と教会は保持する資産と権力を折半するようになった。もとろん民は不在だ。民は稼いだ金を追うと教会に吸い取られるだけになった」
「あらま」
「しかし技術と流通が良くなると、民の中にも自然と備蓄する者が増えた。それが1300年代1400年代の欧州のトレンドだった。王でもない僧侶でもない階級が現れた。大商人だったり大農家のことだ」
「あら、そんな話、江戸時代の話をしてるところにも出たわね。サムライたちじゃない資産家が経済活動の中で生まれたという話」
「ん。経済活動は、必ず上から押し付けたような歪な権力構造を破壊させる。新しい第三の資産家たちの処遇に対する不満を解消したのがプロテスタント運動だ。だからプロテスタントは、金儲けを神の意志として不浄のものとしていない。ジャン・カルヴァンJean Calvinとマルティン・ルターMartin Lutheは、その新しい権力者たちの代弁者だったんだ」
「既得者たちには不倶戴天の敵ね」
「ん。だから互いに憎みあった。互いに神の名をかたった悪魔ども!と言い合ってね」
「その二つが、ベルジュラックとリモージュに分かれたのね」
「ん。始まりは1572年8月17日で起きた大虐殺だ。サン・バルテルミの虐殺だ。4000人のプロテスタントが殺された。
首謀者はカトリーヌ・ド・メディシス王妃だ。彼女はオノレの利権に食らう悪魔としてプロテスタントを憎んだ」

プロスペル=メリメはサン・バルテルミの虐殺を『シャルル九世年代記』でこう書く。
『夜が明けると、虐殺は止むどころではなく、かえって盛んになり、また規則正しく行われるようになった。旧教徒自身すらも、白い十字架をつけて武装することを怠ったり、または新教徒の尚お生きている者がある時、これを密告しなかったりすれば、邪教徒と目される有様であった。王は宮中深く隠れて、ただ暗殺者を会うだけであった。人民は略奪の希望に引かれて、市民軍や兵士と合同し、説法師は、寺院にあって、更に無慙な所業をなすように信者を激励した。
 「思い切って、一度に悪魔の首を皆斬ってしまえ。永く内乱の種を除け」と、僧侶は唱えた。天が人民の狂暴を嘉(よみ)し、見事な奇蹟によって奨励していると僧侶は言い触らし、血に飢えた人民に説いた。・・・「今日は残酷なことこそ慈悲にして、慈悲深きこと即ち残酷なり」というカトリーヌ王太后の言葉が、口口に唱えられ、女や子供を殺す時には、必ず繰り返された。・・・
 二日後に、王は虐殺を止めさせようとした。しかし、一度群衆の感情に手綱を弛めると、もはやこれを留めることは難しいものである。人殺しが少しも止まないばかりでなく、王も邪教徒に対する憐憫の情を非難されて、一旦命じた寛大な処置を取消して、またもや残忍な所業を奨励するに至った。』

「酷い話ね」
「殺し合いが始まれば、ヒトはその狂気に狂うだけだ。憑依されるだけだ。そして憑物のように略奪だけが虐殺の目的になる」
「歴史の中に何度も何度も出てくる醜悪さね」
「ん。だからといってそれをしかけた首謀者は、敵を殲滅までには追い込めないんだ」
「どうして?」
「その敵こそ、王と教会の資金源だからだ」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました