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AVIREXと共に40年、来ちゃった

AVIREXと共に40年、来ちゃった。
半世紀の付き合いをしてるブランドは・・あとはリーバイスだけだなぁ。
僕の最初のA-2はタイランドU-TAPAOのペースに在ったPXで買ったものだった。馬革製だった。・・これはそのまンま50年ちかくも前の話だ。大事に着てたンだけどね。たび重なる引っ越しの間にどっか行方不明になっちゃった。というか、僕がいないウチに、臭いとか言われてオフクロが捨てちゃってたことが後に判明。ありゃショックだった。まあ・・馬革だったから、確かに臭かった。

ベトナムから帰ってきたときに着てたのは忘れもしないCW-36/P。これは今でもある。リブが伸びきって、ちょっとダラしなくなってるけど、今だ現役だ。ただ僕自身がジジイになってきたせいか、まったく似合わなくなってきた。着るとドカタのオッさんにしかみえない。
1975年の最初のNYCのときは笑っちゃうほど赤貧の底にいたからね、セレベーションアーミーのバザーでもらったMA-1(DOBBS INDUSTRIES)とモコモコのセーターを着てた。それからずっとスリーシーズンの普段使いはMA-1になった。デニムはずっと501。ときどき505。こう考えてみると、僕の着るものは40年間全然進化してないことになる。
言うまでもないが、これらは全てAVIREXではない。軍の放出ものとPXで買ったものだ。DOBBSが殆どだった。

1970年の後半ころだったか、Jeff Clymanという男が“THE COCKPIT”という名前でカタログ販売を始めた。ここがAVIREXという社名だった。同社製のMA-1を買ったのは、このときが最初だった。

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アッパーウエストのセレベーションアーミーで貰ったDOBBSのMA-1に比べて、よっぽど綺麗でカッコよかった。なんで長年着たMA-1はポイしちゃった。!!なんと今考えれば勿体ない。まちがいなく朝鮮戦争を生き抜いてきたジャケットだったのに。ボロいからって、捨てちまったんだ。臭いからって、僕の馬革のA-2を捨てちまったオフクロのことは、責められないよな・・
まあ、その時はそんなこと考えなかったんだよね。
当時は、もうU/S/O(United Service Organizations)の仕事はしなくなってたけど、ファッションは上から下までMILスペックのものばかりだった。
1980年代になって、遅まきな恋をして結婚して、二人の娘を授かった。その頃でもAVIREX熱は冷めなかった。
A-2は有ったし、B-15は有ったし、B3とRAFまで有った。RAFは中々難物で、歩く羊毛の絨毯みたいなモンだから、日本国内では殆ど無用な代物だ。NYCの真冬だけのために買ったモンだ。それにしちゃ当時でも3000USD近くした。今でもクローゼットにデンとぶる下がってる・・場所ふさぎな僕みたいなやつなのです。

僕はこのAVIREX熱を当然のように、嫁さんと娘たちに押し付けた。でも娘たちも大きくなると「可愛くないからイヤ」とか言い出す。しかたないから「コズカイやるから着てくれ」とか言って着させてた。「私にはくれないの?」とか嫁さんも言ってたけど、これは無視してた。
ところがそのAVIREXが。THE COCKPITが会社ごと売られちまうと、急速にシティファッション系のオシャレなものに変わっていったのだ・・往年の飛行少年(非行少年ではない)の夢は失速した。日本の上野商会がね、なんとかその夢を支えようとしてくれてるけどね、それでも本家の失速ぶりは哀しい。

ロングアイランドの倉庫街の中に有ったアウトレット。ハウストンとブロードウエイの角に有ったショップ。これらがすべて無くなって、今はヴィバリーヒルズ/ロディオ・ドライブだけになっちゃった。あスこも一回、行ったけどね、集まってる飛行少年の質がNYCのそれと全然違って、魂消たね。こりゃダメだ。ここは俺のAVIREXじゃないって思った。
今、着てるのは、サンデグジュベリ・モデル。もう少し季節が暖かくなると、上の娘が買ってくれたAVIREXの薄い布製ジャケットになる。と、こいつはクローゼット行きになる。

まだまだAVIREXとのお付き合いは手仕舞いしないで済むだろうか?ジジイを許容してくれるだろうか?許容してもらうために背筋をキチンと伸ばして、顎ひいて颯爽と歩くよう気をつけなくちゃな・・そう思った。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました