見出し画像

葛西城東まぼろし散歩#26/市川荷風式#02

「罹災日録」に彼はこう書いている。
「嗚呼、われは着のみ着のまゝ家も藏書もなき身とはなれるなり。予は偏奇館に隱棲し文筆に親しみしこと數ふれば二十六年の久しきに及べるなり。されどこの二三年老の迫るにつれて、日々掃塵灌園の勞苦に堪えやらぬ心地するに至りしが、戰爭のため婢僕の雇はるゝ者なく、園丁は來らず、過日雪の降り積りし朝などこれを掃く人なきに困り果てし次第なれば、寧ろ一思に藏書を賣拂ひ身輕になりアパートの一室に死を待つにしかじと思ふ事もあるやうになり居たりしなり。昨夜火に遭ひて無一物となりしは却て老後安心の基なるや知るべからず」 たしかに文面には作家としての気丈がある。しかし僕は老齢で一切を失った荷風の喪失感とトラウマを感じてならない。
焼け出された荷風は、東中野の芸術家村にあった菅原明朗/智子夫妻宅へ移った。しかし、ここも5月26日に戦焼、菅原氏の実家があった兵庫県明石市へ疎開した。父の実家である名古屋には越していない。

その経緯を荷風は知人宛の書簡(昭和20年10月2日付)でこう書いている。
「私事 市兵衞町罹災後中野住吉町のアパートに立退きそこにて五月二十六日再び燒出され數日間下目黑駒場なる知人の家の厄介になり。わづかなる知るべをたより兵庫縣明石に行き西林寺といふ寺に避難致居候處六月十日頃爆風にて仝寺も危險になり候爲同宿の人と共に岡山市へ落行き宿屋住ひ致居候然るところ此宿屋も六月二十八日夜半に至り同市空襲の際燒失致し後樂園外の旭川へ逃げ行き九死に一生を得たる仕末八月になり備中勝山に行き谷崎潤一郎君を訪問し再び岡山に歸りなど致居り候八月廿九日やつと東京へ歸り候得共食料轉入届思ふやうに參らず困難の際幸親戚の者熱海へ罹災致居候事を知り唯今の處へ參候次第に御坐候」
罹災日録・八月卅一日の条には「夕七時過品川の驛より山ノ手線に乗換へ、澁谷の驛にて村田氏と手を分つ」とあるので、おそらく荷風が帰京したのは㋇31日だろう。荷風は代々木駅前の鈴木薬局に従兄の大島一雄を訪ねた。しかし大島は熱海に疎開しており、荷風は翌日熱海市和田へ大島を訪ねて移動。大島一家と合流している。以後4ヶ月余り、荷風はこの木戸宅に大島一家と同居した。
「荷風が帰京したのは1946年1月だった。そして大島一家と暮らすために市川市菅野に家を買った。1946年1月だ。このとき荷風は66歳だった。でもね、荷風はかなり変なところがあった」
「なに?」
「夜中に大島夫婦の部屋を覗き見したりした」
「なにそれ!ただの変態!?」
「何回か注意したんだけどね。止めなくてね、さすがに大島夫婦も呆れ返って荷風を追い出したんだ。以来、生涯を終える(1959年04月30日79歳)まで、荷風は市川市内で独りぼっちのまま生きた人だった」
「荷風ってただの変態?だったの??」
「決して"ただ"ではない。天才で碩学だった。でも病的な部分があったということさ」
嫁さんは呆れ返って沈黙した。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました