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佐伯米子#01

明治36年(1903年)7月7日、池田米子は銀座尾張町で生まれた。後の佐伯祐三夫人である。父・池田嘉吉は象牙の貿易商。米子は次女だった。
震災前の京橋区はまだまだ下町の趣がある町だった。銀座の通りは1階が店舗、2階3階が住宅と云う棟が軒を並べていた。
米子の実家は、象牙貿易商と云うこともあって、かなり裕福な家庭だった。
現在、第一ホテルが建っている辺り(双葉町4番地)に二階建ての屋敷を持ち、大きな土蔵が敷地内に幾つか建っていた。土蔵の中は南方で仕入れてきた象牙が大量に貯蔵されており、池田嘉吉はこれを様々に細工物に加工して、銀座尾張町に構えた店舗で販売していたのだ。
米子は裕福な幼女時代を過ごした。ところがその頃、肩車をした手代が彼女を落としてしまうという事故に遭った。そのため彼女は脚に致命的な怪我を負ってしまった。
杖を使うようになってしまう。しかし生来、利発な明るい少女である。生涯の傷を負いながらも彼女は、伸び伸びとした10代を過ごした。
地元の泰明小学校を卒業した後、虎の門東京女学館へ通いながら日本画を学んだ。卒業後は実家の商いを手伝いをしていた。
彼女は和装を好んだ。洋装することは殆どなかった。
言葉使いも江戸弁で、店で乃手(山の手)の夫人たちの相手するときだけは気取った仕草で乃手言葉をしゃべったが、普段はおきゃんな下町娘だったようだ。

交友関係も広かったようだ。その中にひとつ年下の佐伯祐三がいたのは、彼が東京美術学校の学生だったからである。絵画を愛する心が二人を繋いだのである。
無口で内省的な祐三と、社交的で艶やかな米子は強く惹きあった。祐三は「彼女は僕のヴィーナスだ」と絶賛した。米子は祐三の溢れ出る才能に魅了された。
しかし何とも何とも不思議なカップルだった。米子は東京女学館の学生である。袴に絣の着物に大きなリボンをつけた大正の女学生だ。まるで竹久夢二の絵に出てきそうな美少女である。いっぽう祐三は関西から出てきた美学生で、いつも驚くほど粗末な格好をした精悍な鷲のように鋭い男だ。米子は東京の女学生言葉を話し、祐三は訛の強い関西弁を話した。

大正10年(1921)5月21日、二人は結婚する。祐三はまだ学生だった。翌年11年長女彌智子出産。翌年大正12年(1923)祐三は東京美術学校を卒業。すでにその頃から天才の名をほしいままにしていた。すでに祐三はパリへ行きたいと考えていたようだ。米子は長女を連れて共にパリへ行くつもりでいた。

そしてその年9月1日。関東大震災が発生。銀座は灰燼と化した。
米子の実家・池田家も甚大な被害を受けた。すぐさま東京市長後藤新平は復興事業を起こし、銀座も現昭和通り/晴海通り/外堀通りなどの整備が行われたが、抜本的な改革までには至らず、街区はそのまま残されたので、銀座は相変わらず小商ないの店が群居する町のまま昭和を迎えている。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました