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ワインと地中海#02/フェニキアのガラス玉#02

https://www.youtube.com/watch?v=I3cnxTYemSg

50代になって自立した。仕事はやはり、ウロウロと世界を歩くものだった。90年代に入ってから、ベイルートには何度も通った。大好きな街の一つだ。仕事が終わった後、一人で過ごすザイトゥナ湾の港に並ぶ店が好きだった。しかし憧れの国立博物館Musée national de Beyrouthは相変わらず閉鎖されたままだった。博物館が有るダマスカス通りは内戦時代、最前線だったからだ。博物館は高い壁に囲まれて、外装をまともに見ることも出来なかった。
当時付き合いがあったベイルート在住の同業者にその話をふると、全員が肩を竦ませた。
「あそこは内戦の時、兵舎になったんだよ。略奪も酷かったし、建物はボロボロにされて落書きだらけになってる。それと地下水にやられているそうだ。再建の目途は立たないな」
ある地元出身の人が言った。彼は僕とほとんど同い年だった。
「アイン・ルマーネ事件Ain el-Rammanehのとき、俺は大学生だったよ。衝突はあの時からだ。マロン派とPLO民兵の報復戦で無辜の人がたくさん死んだ。そのうちドゥルーズ派がマロン派と対立し始めて混乱を極めた。我が家はロンドンへ逃げたよ。この辺り(ザイトゥナ湾)のホテルは先負民兵たちが徴収して兵舎になっていたそうだ」
「シリアの軍事介入?」
「76年だ。イスラエルが入ってきたのが77年。マロン派民兵LFを傀儡にして78年にリタニ戦争が起きた。そして聖戦を標榜する自爆テロが無数に起き始めて収拾が付かなくなって、ベイルートは我々が還る場所ではなくなってしまった。父は毎日のように嘆いていた。よく憶えているよ。いまこうやって、収拾はついていないが戻ってこられるようになったことはありがたい」
彼にとっては、博物館より貿易港の再開の方が重要だったのかもしれない。

国立博物館Musée national de Beyrouthが再度公開されたのは1997年の年末だった。
僕は無理やり仕事を作って出かけた。伝手を辿ってAUB/American University of Beirutkで考古学を専攻する学生にガイドを頼んだ。彼はレバノン人だが出身は英国だそうだ。
しかし、いざ博物館を訪ねてみると・・公開されているのは一階の一部と、地下の・・これもまた一部だった。見学する目の前でかなり大規模な修復が続けられていた。ガイドを頼んだ学生君は定期的に此処の修復作業に参加しているとのことだった。
「地下水にやられてコレクションの腐食と破損が酷いです。まだまだ時間がかかります」と彼が言った。
地下の展示室にはホルスの目、コガネムシ、そして太陽三日月などが展示されていた。お目当ての瞳嵌入玉はなかった。
僕は、母の許に有る瞳嵌入玉のことを彼に話した。
「日本にあるのですか?」彼が言った。僕が母は東京で暮らしていると云うと笑った。
レバノンは、国内にある考古学的文化遺産を全て国有のものとしていまして、小さいものでも個人で持っていると返却が要求されます。父上の思い出のものでしたら、そのままにしておく方がいいでしょう」
博物館は翌年春に再度閉鎖になった。
再々開は2014年だった。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました