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佐伯米子#03

佐伯夫妻がパリへ向けて神戸を出発したのは大正12年11月の下旬/日本遊船香取丸での出航だった。同行者は木下勝次郎、西村叡夫妻の3名。夫婦だけの渡航ではなかった。いつも日本人の知り合いが傍らにあり、日本人サークルの中で完結する。これが佐伯祐三訪巴の特徴だ。
天才たちが群雄割拠する1920年代エコール・ド・パリに在りながら祐三はモーリス・ド・ヴラマンク(1876-1958)以外に、これと云った知己を得ようとしていない。佐伯祐三は「パリの異邦人」の中の異邦人だったのだ。

同時代に、あの街で生きた画家たちの名前を幾つか挙げよう。
マリー・ローランサン(1883-1956)モーリス・ユトリロ(1883 - 1955)アメデオ・モディリアーニ(1884 - 1920)マルク・シャガール(1887 - 1985)ジョルジュ・ブラック(1882-1963)サルバドール・ダリ(1904 - 1989)マルセル・デュシャン(1887 - 1968)ジョルジョ・デ・キリコ(1888 - 1978)マックス・エルンスト(1891 - 1976)ジョアン・ミロ(1893‐1983)何と云う綺羅星だろう。
祐三は、こうした人々と同じ時、同じ場所に生きた。しかし二人は、誰とも繋がりを持とうとしなかった。彼ら天才群の中に入り込んで切磋琢磨するつもりはなかった。
何故だろうか。

一番大きな理由は、祐三がパリで生きる/暮らすために、オノレの絵を売る必要が無かったからだろう。同時に「フランス語」という壁が目の前に大きく立ち塞がっていたからではないか。
祐三は大阪の大きな寺の御曹司であり、米子は銀座の大店のお嬢さんである。自分たちが使える片言のフランス語で、自分たちのプライドを保持したまま話せるのは、使用人であり/街の人であり/画学生として通う教室のなかだけ・・だったのではないか・・パリの街に棲まう各国から集まった綺羅星たちに知己を得て、彼らと話すには何とも越えられない"衒い"が有ったのではないか。僕は考えてしまう。それが二人を「パリの日本人コミュニティ」に閉じ込めた。閉じ込まれることで安心を得た。

同時代に生きた、世界中から集まった綺羅星のような天才絵描きたちが、必ず「パリ人」になることから始めたこと(藤田嗣治など)に比して、佐伯祐三のパリは「長い写生旅行」でしかなかった。佐伯夫妻の「パリの最初の23ヶ月」は、パリの小さな日本人コミュニティの中で紡がれ、自己完結した。彼らにとって、パリは生きる街ではなく絵を描くための「素材」に終始したのである。
たしかに異郷としてのパリは二人に猛烈な衝撃を与えた。しかし二人はその衝撃を、日本からの視座だけで見つめ続けた。
僕は、日本人の欧米との関わりあい方を考える時、この二人のスタンスは、きわめて象徴的に思えてならない。中国人にもある/半島人にもある/日本人にもある東亜的地祇への関わり方だ。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました