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東京島嶼まぼろし散歩#21/伊豆諸島01

「大島へ行くのに船で行くのか飛行機で行くのか、悩んでる」
「あら、ようやく行く気になったの」
「ん。船だと高速船で竹芝桟橋から1時間45分だ。飛行機だと、調布空港から25分」
「あら、羽田じゃないの?」
「羽田からのANA便は無くなった。今は新中央航空が調布空港から飛んでるだけだ。」
「不便ねぇ。高速船は竹芝からでしょ?その方が行きやすくない?」
「まあ、たとえば往復を高速船と飛行機で振り分けるという手もある」
「それ。それにしよ」と、まあ能天気な返事だった。

とりあえずまあ、ホテルを探した。夕食のクオリティに嫁さんが煩いので、こいつを選ぶのはいつも悩ましい。自分で決めてくれりゃいいのに~と思うんだが、なかなか選びにくく(いずれもドングリ)エイや!で大島温泉ホテルにした。

電話で予約と共に、貸し切りを頼めるTAXIを紹介してもらった。大きい車が良いので長岡交通というところを紹介してもらった。

ここも電話して予約。一緒に大島飛行場へのピックアップも頼んだ。
「・・ということは、行きが飛行機ね」
「そういうことだ。」
飛行機は、15:45発を選んだ。

調布飛行場は調布駅から4km弱。
「調布って行ったことないわね」と嫁さんが言った。
「京王線だ。都営新宿線が繋がってるから、ウチからは楽だよ。有楽町で行ける。一時間ちょいだ。」
「へぇ、だったらお昼に出て調布でランチしない?レストランは探しておくわ。空港へはどう行くの?」
「TAXI。10分くらいだろうな」
というわけで、土曜日の午前中に家を出た。

伊豆大島かめりあ空港に着いたのは16:00すぎ。小さい飛行機なので、わりと揺れたから嫁さんはご機嫌がよろしくない。
お願いをしたTAXIは、ターミナルビルで運転手さんが待っていてくれた。
「明日も私がご案内します」と言ってくれた。
ホテルまでは20分程度。チェックインして部屋に入ったのは17:00近かった。ホテルは山腹に有った。部屋は洋室で簡素な感じだった。窓から海は見えなかった。三原山がはっきりと見えた。
嫁さんが、セットしてあったお茶を出してくれた。僕はPCのセットをしていた。嫁さんは僕の横に座り言った。
「大島が、江戸幕府直轄になったのは早かったんでしょ?」
「ん。伊豆諸島が、韮山代官所の所管だったのは寛文9年(1669)までで、以降は伊奈兵右衛門が豆州代官になった。それまでは、豊臣時代のまま小田原北条氏の旧臣が仕切っていたんだ」
「また伊奈一族?」
「ん。伊奈兵右衛門は、就任すると代官手代をおもな島に置いた。さ享保11年からは島の地役人が『島方諸事』の取締に充ったとある」
「伊奈一族って、江戸幕府の要所要所で一番大事な実務を担当したのねぇ。・・でも・・家康さんが江戸を作ったのは1600年くらいよね。それよりもずいぶん後なのね」
「幕藩体制が確立するまで、時間がかかったんだよ。確立したのは三代家光将軍の頃だ。伊豆七島は流刑地以外に役目が無かったからきちんとした整理が確立するまで有耶無耶のまま置かれていたんだろうな。ようやく韮山代官所所管と決まってからは税金の徴収は此処が行ったんだが、実際には手代等を年に一度、主だった島に行かせるくらいでね、現実的な管理や支配は夫々の島で最も力を持っていた神主が地役人となって実施したんだ。神主だからね、世襲制だった。大島の藤井氏、新島の前田氏、神津島の松江氏、三宅島の壬生氏、八丈島の菊池氏が史料として名前が残っている。神主がいない島は名主が支配した。
実際問題、人口も少なかったし、産業も細々としたものばかりだったから、それで十分事足りたんだろう」
「どのくらいの人が棲んでいたの」
「細かい資料は少ない。寳暦3年(1752)に出刊された『伊豆七島調書』を見ると、伊豆七島の全人口は、男4955人・女5740人、流刑者。男169人・女35人とある。人口は大島・新島・利島・神津島・三宅島 御蔵島に固まっていた」
「見たの?」
「見た。近藤出版部が明治36年に出したものだ。国会図書館にある」
「でた。絶対に一緒に行きたくない国会図書館」
「伊豆七島が納めていた年貢は101両1分と永625文。そのほかに八丈島・八丈小島・青ヶ島からは、八丈紬635反が出されていた」
「八丈紬?」
「島内に自生している植物の草木染だよ。黄色は八丈刈安、樺色はマダミの樹皮、黒色は椎の木の樹皮を使う。沼浸けするんだ」
「沼漬け?!沼で漬けるの?」
「ん。八丈紬は色褪せしない。それで有名だ。とても無長持ちするんでね、将軍より諸大名への賜物として利用されたんだ。それと・・八丈島の"八丈"はこれから来た名前だ。八丈紬は二反分の一疋が曲尺で八丈(約24m)だった。それが島の名前の由来だ」
「びっくりね。そんなことも国会図書館の本に書いてあるの?」
「書いてない。書いてあるのは田んぼのことは書いてある。田んぼが有ったのは利島・八丈島だけ。、畑は各島に少々ずつあったと書かれている。さすがにこれだけでは自給自足できないので、大島・新島・利島・神津島・御蔵島の五島には年々合せて米65石4斗6升の御救米が支給されていたとある。貧しいというよりは、年によって飢餓に近い状態にまでなったろうな。」
「それでも島民たちは棲み続けたのね。漁労だけでは生きていけなかったの?」
「『伊豆七島調書』をみると「八丈島之儀ハ御用船弐艘共に壱ヶ年一度宛之外渡海無御座候、外島六島ハ江戸へ折々廻船往来仕候、右之内大島・新島八毎月廻船往来仕候に付、島柄大概に御座候、外島ハ何れも困窮に御座候』とある。何しろ離島だからな。獲れた魚を交易には使えなかったんだろう。大島・新島は廻船がきた。しかし『外島ハ何れも困窮に御座候』とある。これはかなり重い言葉だ。
それでも、生活用品は鍋釜織木綿は幕府からときおり支給されていたようだ。老中から豆州代官伊奈兵右衛門へ宛てた手紙が残っていてね、寛文九年(1668)五月だ。「鍋釜四百二十三、隔年に御買上にて被下置候、 惣百姓割賦仕り、代り織物にて翌年返納仕候」とある。借りたんだな。『織物にて翌年返納仕候』したかは資料がない」
「そう考えると、ほんとに流刑地に相応しい場所だったのね」
日が暮れて来ると、窓から一望できる三原山が闇の中に沈んでいく。ホテルは大島の原野林に面しているから人口の明かりは何もない。
「暗いわね。江戸時代はもっと暗かったんでしょうね。でもこの島で産まれぞった人たちもいるんでしょ?」
「大半が漁民だ。畑は雀の涙しかない。徳川幕府は島民のためにしばしば救米金・拝借米金を出した。しかし結局は対症療法でしかないからな、享保年間に入ってから薩摩芋栽培を奨励するようになっている。薩摩芋種を支給しているんだ。これはかなり効果があったようだ。享保年間から基金による餓死者の記録は消えている。八丈島の佐々木家に伝わる『八丈島小島青ケ島年代記』には、こうした悲惨な飢饉の様子が記録として残っているよ。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました