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3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#01

2月22日から話は始めたい。
ガイドブックは警視庁専属カメラマン・石川光陽が残した私製の「帝都空襲記」である。
彼の手記にはこうある。

「2月22日 木曜日 吹雪
早朝から冷い風と共に猛烈な吹雪である。朝鮮にかける昔の軍隊当時を思い出した。寒風に粉雪が煙のように吹き捲いている。この猛吹雪の最中,午前11時30分突如警戒警報発令された。かかる悪天候の折盲爆されてはえらい事になるぞと思って待機していると、11 時 52 分解除となった.まず何事もなくてなによりであった。」

戦前、父と共に写真館を経営していた石川光陽は、徴兵退役後1927年(昭和2年)3月警視庁に入庁した。以後退官まで、紆余曲折専属カメラマンとして愛用のライカをもって撮影を続けている。
とくに戦中の東京市内の惨状を捉えた写真は秀逸で、戦後はすべてGHQに押収された。
この日、石川は警視庁桜田門に戻ると年初来から始まっていた米軍の空爆被害の写真を整理した。彼は、暗室で空爆被害現場写真約600 枚引伸処理した。

「夜中の3時48分。これはと思って事務室に出てみるとあの猛吹雪はいつの間にやら止んでいた。美しい月光が窓を通して私の机の上に照っていて、机上の硝子板が冷い鉛のような鈍い色で光っていた。火の気のない暗室の気温はぐんぐんと下降して、水道の水は手が千切れそうだ。
大きな声でへたな詩を吟じながら、体を激しく動かして少しでも暖かくしようと一生懸命だった。事務室に出て来て自分の椅子にかける。あたりは森閑として静寂そのものだ。自分一人の呼吸の音が,心臓のひびきが聞えてくる。無性に静かな中に,昨日までのあの悲惨な有様が再び頭に浮んできて何か悪夢のように思われてきた。どうか夢であって欲しいと思った。」

当初、米軍による空爆は高々度から東京近辺の航空機器工場への爆撃だった。
1944年11月1日の偵察開始から始まっている。
1945年8月14日まで、延べ288日に及ぶ爆撃だった。
実は空爆そのものは、既に1942年4月18日午後0時29分に受けていた。これはB25によるものだった。いわる「ドーリットル空襲」である。
https://drive.google.com/file/d/15hasbbIAzjGTJFo0IqKxbTgPzawLosMW/view?fbclid=IwAR0AwvUJTTGtOx0BvLXuLkF50Pl23RcHgSG6bcerS__BfhmV0YrpcwhE0eU

B-25爆撃機16機が東京/横須賀/横浜/名古屋/神戸している。しかしB25は航続距離の問題があること、それと日本本土空爆のための基地が用意できなかったことで、実際に空爆が本格化するのはサイパン/硫黄島などが米軍下に陥落してからになった。つまり周辺海域の領有権を失ったことで、1944年末から始まる本土空爆は起きるべくして起きた攻撃だった訳である。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました