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黒海の記憶#40番外/黒海は東洋と西洋の境目にある#02

旧い世界地図を見ると‥「東洋Orient」と「西洋Occident」を分けるのはウクライナを走るドンDonets川のものが多い。
ドン川は、モスクワの南東トゥーラ近くから始まり、最初は南東のヴォロネジへ向けて流れ、南西へと向かい、約1,950kmを流れアゾフ海北東部のタガンログ湾へ注いでいる。川沿いに主要都市ロストフ・ナ・ドヌとアゾフがある。最東端はヴォルガ川と接近しており、いまはドン=ヴォルガ運河(全長105km)によって結ばれている。
黒海に流れ込む川は多い。アゴイ、ビジップ、ベレカ、グミスタ、イェシリルマック、エングリ、コドル、ソチ、チョロキ、プソウ等々。大河はドナウ、ドニエストル、サザンバグ、ドニエプル、ドン、クバン川などだ。

「黒海の話」の最初に書いたが、黒海か未だ地中海と繋がっていなかったころ、黒海はこうしたコーカサス/バルカン/アルメニア山地に降った雨水が流れ込み、ひたすら溜まるだけの淡水湖だった。
氷河期が終わり、海岸線が上がり、ついには黒海とエーゲ海を分けていた陸橋が瓦解したとき、ほぼ一年ほどで今の黒海ができあがったと言われている。旧淡水湖黒海周辺の町も村も全て水没した。それが強い記憶となって聖書の「大洪水神話」は生まれたと言われている・・とこれも余談だ。

さて。なぜ中世/近代の地図製作者たちは、ドン川を「東洋Orient」と「西洋Occident」としたのか?
もともとこの辺りは、勇猛なる遊牧民族スキタイ人発祥の地である。
ギリシア人はスキタイ、ペルシア人はサカと彼らのことを呼んだ。ヘロドトスはこう書く。
「サカイ、すなわちスキタイは、先が尖ってピンと立ったキュルパシアという帽子を頭にかぶり、ズボンをはき、自国産の弓、短剣、さらにサガリスという(双頭の)戦斧を携えていた。ペルシア人は彼らをサカイと呼んでいた。というのは、すべてのスキタイにサカイという名前を与えていたからである」
しかし彼らが何と自称したかはわからない。スキタイは文字を持たなかったからだ。ヘロドトスは彼らを「自らをスコロイトと呼んでいた」と書いている。そして「彼らは太古から黒海北岸に住んでいた」という。西から「農耕スキタイ」「農業スキタイ」「遊牧スキタイ」「王族スキタイ」と四別している。もともと「遊牧民であり、紀元前8~前7世紀に東方から西に進み、ボルガ河畔に出現し、先住人だったキンメリア人を追い払い、南ロシア草原に強大なスキタイ国家を建設した」人々である・・と。
もう少しヘロドトスを引用しよう。
「戦争に関することでは、この国(スキタイ王国)の習慣は次のようである。スキュタイ人は最初に倒した敵の血を飲む。また戦闘で殺した敵兵は、ことごとくその首級を王の許へ持参する。首級を持参すれば鹵獲物の分配に与ることができるが、さもなくば分配に与れぬからである。スキュタイ人は首級の皮を次のようにして剝ぎとる。耳のあたりで丸く刃物を入れ、首級をつかんでゆすぶり、頭皮と頭蓋骨を離す。それから牛の肋骨を用いて皮から肉をそぎ落とし、手で揉んで柔軟にすると一種の手巾ができあがる。それを自分の乗馬の馬勒にかけて誇るのである。この手巾を一番多く所有する者が、最大の勇士と判定されるからである。またスキュタイ人の中には、剥いだ皮を羊飼いの着る皮衣のように縫い合わせ、自分の身につける上着まで作るものも多い。首級そのものは次のように扱う。眉から下の部分は鋸で切り落とし、残りの部分を綺麗に掃除する。貧しい者であれば、ただ牛の生皮を外側に張ってそのまま使用するが、金持ちであれば牛の生皮を被せた上、さらに内側に黄金を張り、盃として用いるのである

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました