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堀留日本橋まぼろし散歩#06

嫁さんに付き合って大丸の地下食品コーナーで野菜類を買った後、件の玉丁本店に寄った。そんで「餅入り二つね」と頼んだらモツ入りが出てきた。運んできた中華系の女店員に「モツじゃないよ餅だよ」と言ったら「モチ?モツ?」と戸惑ってた。すぐに男の子が来て「申し訳ありません。替えます」と下げてった。
ところが少し行ったところで引き返してくると「もしよろしければ、これに餅乗せてきますが」と言った。
イイねぇ、そういう小回りがあって商いというもんだ。昨今のファストフードに毛が生えたような飲食には、この対応の切り返しの切れがない。
このおかげで、よけいに玉丁本店のファンになりました。

食事の後、永代通りへ向かった。ついでにトラストタワーN館の東側に建てられた北町奉行所跡の碑の前を通った。
「あれ?国際会館の前だったわよね。前に来たときは。こちらへ越したの?」と嫁さんが言った。
「いや、アレは駅構内に越した。グラントウキョウノースタワーのとこだ。東京駅側から本館に入るドアのとこにある」
「二つになっちゃったの?」
「ああ、あっちは東京都教育委員会が作ったもの。こっちはトラストタワー側の考証をもって建てられたもんだ。」
「ほんとはどっちに有ったの?」
「しらん」と投げやりに返事をして呉服橋の交差点へ出た。
「外堀には、有楽町側から数寄屋橋/丸の内橋/新有楽橋/有楽橋/鍛冶橋/八重洲橋。そして呉服橋とかかっていたんだ。呉服橋は、この中でも旧い橋だ。この辺りは、家康さんと共に江戸湊へ越してきた町民たちが住んだ町だ」
「この辺は海じゃなかったの?中央区って大半がうみだったんでしょ?」
「ん。でも道潅さんが作った江戸城は、江戸湊側に江戸前島というのがあったんだ。全部が海だったわけじゃない。この辺りから、汐留くらいは陸地だった。その陸地に日比谷入り江というのがL字型に入り込んでいた。
江戸へ移り住んだ家康さんは積極的に江戸湊の干拓を推し進めたが、全部が全部葦原だったわけじゃない」
「なるほどね。この辺りは島だったのね。」


「ああ、だから縄文時代の遺物が見つかったりしてる。昔の白木屋には展示コーナーがあったそうだ。僕は見てない。」
「白木屋って、東急でしょ?今はコレドだけど」
「ああ。白木屋だ。白木屋の屋上は僕の子供のころの遊園地だ。」
「東急になってからだけど、屋上に熱帯魚階に行ったこと有るわね」
「そうそう♪すごいなあ、よく憶えているなぁ」
「あなたの熱帯魚趣味にはずいぶん引き釣りまわされたからね」

呉服橋の交差点を日本橋川に渡って、新呉服橋ビルの前で僕が「あれぇ?」と言って立ち止ってると・・
「どうしたの?」嫁さんが声をかけてきた。
「港屋の石碑がない」
「港屋?」
「竹下夢二の絵草紙の店。呉服町2番地に、間口1間2階建ての店舗があったんだ。その石碑」
新呉服橋ビルの前に有ったのが「アスベスト工事作業中」で完全に囲まれていた。
「港屋は、岸たまきと夢二が二人で始めた文具屋だ。夢二の作品を売ってた。木版画とか絵本とか詩集、千代紙、風呂敷、浴衣をな。でも岸たまきとの間が破局する同時に閉店になった。2年だ」
仕方ないから、そのまま裏へ回って西河岸地蔵教会を見てから帰宅した。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました