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夫婦で歩くプロヴァンス歴史散歩#20/シャトー・ヌフデ・パプ10

https://www.youtube.com/watch?v=6KpdOJtslOE

アヴィニョン司教座がシャトーヌフ・デ・パプに強い関心を抱いていたのは、同地が巨大な収入源だったからだ。
その巨大な収入源とは、採石場/そしてローヌ川通行税/そして・・塩である。
実は、ローヌ川流域で最大の岩塩集荷場がイスロン・サン=リュクIslon Saint-Luc/シャトーヌフ・デ・パプ(当時はキャッスル・ノーヴォ)にあった。
塩は課税対象として優秀だった。当時フランク王は、度重なる戦争維持のために生活必需品である塩へ課税するようになっていた。ところが司教座管理になることで、シャトーヌフ・デ・パプで集荷される塩はすべて非課税になり、これがアヴィニョン司教座の豊富な財源になったのだ。アヴィニョン司教座にとってシャトーヌフ・デ・パプは、まさに宝の山・・だったわけだ。

そして、1305年。ボルドー大司教ベルトラン・ド・ゴットが教皇に選出された。彼はクレメンス5世と名乗った。41歳である。そして教皇庁を1309年にローマからアヴィニョンへ移した。キリスト教徒はこれを「アヴィニョンの捕囚」という。1377年まで教皇庁はローマからアヴィニョンへ移っていたのだ。
このベルトラン・ド・ゴット/クレメンス5世は数回アヴィニョンを訪ねている。131211月6日から22日まで。1313年、5月9日から7月1日まで。そして10月19日から12月4日まで。1314年に3月24日から30日まで。そして1314年4月7日、彼はローヌ川対岸のロックモール城で亡くなった。
約二年の空位をおいて次の教皇になったのはジャック・デュウーズJacques Duèzeだった。彼も同じくフランス人だ。彼は131 年に選出され、ヨハネス22世と名乗った。72歳の高齢な教皇だった。
戴冠式はローマではなくリヨンで行われた。その後、彼はシャトーヌフ・デ・パプに移った。実は、彼は1313年までアヴィニョンの領主であり、司教を務めていたのである。教皇就任後、甥のジャック・ド・ヴィアに司教と領主を委譲したが、1317年に甥が亡くなると以降は彼のものに戻った。他者に任せるにはあまりにも利権関係が確立し難かったのかもしれない。ヨハネス22世は亡くなるまでシャトーヌフ・デ・パプの領主として君臨した。亡くなったのは1334年12月4日である。

僕らはD192ベダリッド通りRte de Bedarridesを歩いていた。村中心部の5差路から来た道を下りてそのまま Av. Saint-Pierre de Luxembourgを渡って直進する道だ。道はまた登り道になる。しかし舗装されているから歩きやすい。交差点から1.5kmほど登ったところにホテルへの看板が見えた。 これを左に入ればいい。周囲は全て葡萄畑になった。
「シャトーヌフ・デ・パプにある畑の90%以上は葡萄畑なんだ。この石塗れの地面じゃ葡萄以外のものを育てるのは至難だろうな。ところで・・ここに葡萄畑を育てようとしたのはヨハネス22世なんだよ」
「スペインの戦争から帰った退役軍人たちじゃなかったの?」
「いや・・あまりにも過酷だ。ここに葡萄を植えて育てられるのは人知を超える情熱がなければできない。修道士たちだけだよ。彼らを此処へ移植したのがヨハネス22世なんだ。修道士たちはカオールから連れてこられた」
「カオールから?どうして??」
「カオールはヨハネス22世出身地なんだ、彼に心酔している修道士が多くいた。ヨハネス22世は彼らを此処に投入したんだ。石灰石で埋もれた丘にね」
「どうして?ヨハネス22世は此処に葡萄を植えようとしたの?」
「彼は稀に見る有能な経営者だった。教皇在籍時に実行した政策も優れたものばかりだった。彼が経営の背景に資金繰りを置いていたことははっきりしている。その意味でもシャートーヌフ・デ・パプは極めて重要な素材だったんだよ。おそらく彼は、此処に塩/採石場/ローヌ川関所以外の新しい収入源を求めたんだと僕は思うな。それが葡萄だ。
彼はそれを果敢に実施したんだ。そして実施できるだけの人財を持っていた。修道士だよ。実はね。修道士は志あれば誰でも割と簡単になれた。神父みたいに手間をかけなくても強い信仰心が有れば・・なれたんだ」

「・・それは信仰心なの?狂信なの?」
「それを別けるのは難しい。しかし強い信仰心をもった修道士たちは、神の代弁者である教皇ヨハネス22世に従い、原野に埋もれたシャトーヌフの森の丘に立ったんだよ。そして神の奇跡を信じた修道士たちは朝起きると小槌をもって・・まだ畑にもなっていない森に出たんだ。住まいは囲炉裏のような所だったろう。彼らは命がけで木々を伐採し平地にすると、今度は足許の石を小槌で砕いたんだよ。一つずつ一つずつ。毎日ね。
ミストラルの強風に晒されても、豪雨の日も雪の日もひたすら砕いたんだ。葡萄が植えられる状態になるまでね。一説によると修道士たちの平均寿命は30歳以下だったという」
僕は立ち止まって、四方に広がる葡萄畑を見回した。
「ほら・・彼らの祈りが・・遠くから聞こえてくるように思えないか?」
嫁さんは黙って耳を澄ませた。
・・そのまま少し進むと再度看板が出ていた。ホテルは50m先とあった。歩くとホテル後ろ側に辿り着いた。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました