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仙台市青葉区、街なかの一等地にある晩翠草堂を見学する

土井晩翠(どいばんすい)は仙台生まれでこの地にゆかりの深い詩人です。島崎藤村とともに日本近代詩に大きな足跡を残した人です。詩人として初の文化勲章受賞者だそうです。仙台駅からも徒歩圏内にある晩翠の住まい「晩翠草堂」は街なかのオアシスのような空間です。その晩翠草堂を先日、40年ぶりくらいに訪ねてみました。

この場所を以前訪れたのは、高校生だった頃です。学校帰りに制服のまま友だちと二人でふらっと立ち寄った覚えがあります。入場無料で学校帰りにヒマな女子高生が立ち寄るのには、ピッタリの場所だったと思います💦それから40年以上経った先日、思い立って一人でこの場所を訪ねてみました。

新緑の美しい青葉通り沿いの一等地に、この草堂はあります。実はみけ子の家からも近い場所なんです。でも近くだと返って行く機会がありません。晴天で気持ちの良い4月のある日でした。外は車通りの多い広い通りですが、樹木に囲まれたこの場所は、人けがなくひっそりとした雰囲気です。(車が走る音は聞こえますが)

ここの職員の方が、この草堂の成り立ちを説明して下さいました。

このベッドでお亡くなりになられたそうです。カバーも当時使用されたものだとか。

戦前、旧制二高の教師であった土井晩翠は、この場所に現在の何倍もある広い敷地に三階建ての瀟洒なお屋敷を建てて住まわれていたそうです。ですが、戦災でその自宅は焼失してしまい、その窮状を知った教え子ら市民の力で旧宅のあったこの場所に新しい住まいを建てられたそうです。それが昭和24年のこと。その後晩翠はこの草堂で満80歳で亡くなるまでの数年間を住まわれたとの事。

晩翠の代表作とされる「荒城の月」は、瀧廉太郎の曲により、今も歌い継がれる静かな詩情漂う名曲です。荒城の月の作曲者である瀧廉太郎は、その稀有な作曲の才をかわれて留学するも、結核を患って志し半ばで帰国の途につきます。その帰国途上の日本へ向かう船上で、晩翠と廉太郎は最初で最後の邂逅を果たします。たった1度の出会いでしたが、その後若くして亡くなられた廉太郎を惜しんで読まれた和歌が短冊にしたためられ、この晩翠草堂に展示されています。


瀧廉太郎の逝去を惜しんで歌われた和歌。
夫人の八枝さんは晩翠より先に亡くなられている。
こじんまりした、日本家屋です。

土井晩翠は、仙台の名誉市民であり晩翠草堂は仙台市が所有管理しています。晩翠が作詞した校歌は、現在も仙台市内の多数の学校で校歌として歌い継がれています。みけ子ん家の子供たちが卒業した小学校も、この晩翠氏が校歌を作詞をされました。

自分の住む街の名士の、業績や生き方。時にはいつもは触れる機会がないそんな身近な歴史に触れる時間を待つのも良いですね。

仙台に観光でいらした際には、立ち寄って見るのも良いかと思います。





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