無題55

ミズタマリ 4-3

「そう、これこれ、確かあの子、このゲーム欲しがっていたわね。」

美奈子はそう言いながら、玩具店の店員にそれを指差し、 進吾が何か言う前にさっさと会計を済ませて、 品物を受け取って鞄に入れる。

「二階で服を少し見たいって言ったのに、真っ直ぐここにくるとは、 子供を甘やかせちゃ駄目だと常日頃言っているのは誰でしょうね、奥さん。」

進吾はからかうように美奈子にそう言った。

駅前の大型商店の年末で込み合った店内。
だが、クリスマスが過ぎた事もあり、下の食料品売り場とは違って、二階にある玩具店にはあまり人影が見えない。

「あら、だって、お兄さんの家族が出かけてて、
同じ年頃の子供がいないんだから、これくらいいいでしょう?
カイトはクリスマスプレゼントは靴がいいって言ったから、
暫くゲームは買ってあげていないし、喜ぶと思うわ。」

進吾に言われた言葉を受けて、美奈子はくすくすと楽しそうに笑う。

「そう言えばそうだな、 カイトが高学年になってからは一緒に玩具屋に来ることが減ったし、中学生になったら、玩具をねだることもしなくなったからな。」

進吾はそう答えながら、香の事件があった後に久しぶりに見る、
妻の笑顔に笑い返した。

「そうそう、二人で出歩くのって良く考えたら久しぶり、買い物はこれで全部終わったから、このまま少しお茶でも飲んでから帰りましょう。」

美奈子はそう言って、同じ階にある飲食店を指差し、進吾の腕に自分の腕を絡める。

カートの上に山積みになった荷物を押しながら、進吾は照れくさくなって、苦笑いをしながら、それでも優しく妻にうなずいた。

その頃、外はチラチラと雪が降り始めていた。

それなのにカイトは、じっとりと汗をかいている。
息を吐くと白く見えるほど寒いのに、
じっとりと全身をつたうような妙な汗。
座り込んだ床から、這い上がる冷気も感じるのに、
頬は燃えるように熱い。
夢中になって追う文字の中から、知りたい事を全て探し出そうと必死で、
おかしな汗も、周りの寒さも、何も感じてはいなかった。

ノートを開く指先がぶるぶると震える、
その震えは寒さ以外の感情の昂ぶりのためだろう、
小刻みにずっと続いている。
それも、まったくカイトには解かっていない。
それほどカイトはノートに書かれた文を読む事にのめりこんでいた。

夏の日、初めてもう一つのノートを読んだ時の、アキラのように。

カイトの瞳は一文字も漏らすまいと目の前のノートの文字を追う。
読み進むうちに少しずつ『ミズタマリ』のことが解かってくる。
これは、前のノートと随分違い、
あの、カイトが以前少し見た、 大叔父輝也の淡々と書かれた文章ではなく、 輝也の弟の祖父和也の言葉で書かれた日記のような物で、前のノートのように要点をまとめた解かりやすい物ではなかったが、今のカイトには、それでも十分だった。

主となった大叔父の輝也に呼ばれて、カイトの祖父の和也は何度か『ミズタマリ』に行ったと書かれている。
最初に兄に呼ばれて向こうの世界に行った時の驚きと、
慕っていた兄との再会した時の喜びの気持ちを綴った文章が続き、
そして不思議に思った事や不便だった事も書かれていた。

カイトの祖父和也は、行くたびに数日滞在したが、
向こうでの三日間はこちらの世界の一日くらいだったと記されている。
向こうの世界と現世の時の流れは少し違うらしい。
和也は、向こうに行く時、家族には旅行に行くと偽り、
何度もこの蔵からあちらの世界にこっそりと旅立ったのだ。

嘘をついて、偽って、『ミズタマリ』に何度も行った和也。
そうしなければ、自ずと進んで『ミズタマリ』に行った者達と違い、この小林の家の男子は『ミズタマリ』に行っても、
その間、生きていた痕跡や記憶が消えない。

それは彼らが他の人々と違い帰ってこれるからで、
小林の家の男子だけの特権であり、
守らねばならない秘密だと、和也はノートに書いている。

兄の輝也が消えた時、大騒ぎになった事があるので、
和也は注意して向こうの世界に行き来する事を続けたのだった。
自分が兄の年齢を随分と追い越してしまうまで…

カイトはそこまで読んで、何かが心に引っかかった。
何かがおかしい… それが何かは解からないが、引っかかる。
疑問の答えを求めて、またノートの文字に視線を戻す。

ある時、和也は恐くなったらしい。
兄の輝也の周りの人々は、
会うたびに自分より少し早く年をとっているのに、
兄、輝也は、主としての仕事の為か、
現世を旅立った時から容貌が何一つ変わらない。
輝也は和也より十歳以上年上だったらしいが、
会うたびに変わらぬ姿で、いつしか和也が兄よりも老いた。
和也はそれが嫌になった。年をとらぬ若々しい兄が羨ましくなった。
勿論、自分は年をとる代わり、現世で意義のある仕事を勤め、
妻を愛し子供も生まれ、人としての幸せを感じていたが、
体が老いはじめると、どうしても、
兄が自分よりも若いというのは段々と耐えられなかったらしく、
そうして和也は、カイトの祖父は、兄にその気持ちを正直に話し、
『ミズタマリ』からどんどん足が遠のいた。

その後数ページは向こうの世界での思い出や祖父の考え、
そして現世と向こうの世界の違いや、疑問点。
それから兄に対しての気持ちが多く書き綴ってあった。

カイトは、そうした文を飽きずに読み進み、
やっと目当ての言葉を見つけた。

『ミズタマリ』への行きかた、そして、その時の注意点。

普段は兄に呼ばれたり、先に呼んでくれる日を決めたりしていたらしいが、
ノートの最後に近い部分に、
急用があった場合、自分で行ける方法を忘れないように、
小さな文字で書き足してあった。短い文。

カイトはそれを何度も何度も読んで、頭に叩き込み。
静かに動き出した。

おもむろに背負ってきた鞄を開くと、布包みをその中から取り出し。
決意を固めた顔つきで、 ゆっくりと布をほどき木箱を見て、一瞬息を止め、 蓋を注意深く開け、両手で『ミズタマリ』を取り出すと、そのまま、ノートの載る文机の中央にそっと置く。

いつの間にかすっかり闇に包まれた蔵の中で、
眩しく輝く二つの裸電球。

それに照らされて、つやつやと安っぽい輝きを見せるいびつな杯。
その茶色ともこげ茶色とも言えない、妙な色合いの杯をカイトは見つめる。

暫くそれを眺めていたカイトは、
何度か瞼をこすって、今度は鞄から小さな紙片を出すと、
それに文字を書いた。

最初に描いた物は、文字が揺れて読みづらいと自分で思い、握り捨て、
カイトは息を吸い込んで大きく吐いて、
もう一度同じ文をゆっくりと書き直した。
そしてそれを何度も読んで確認してうなずくと、
もうほとんど空の鞄から最後にペットボトルを取り出す。

それは、水のペットボトルで、電球の灯りにペットボトルのラベルが光る。
キャップをひねり、杯に水を入れた。


それから、カイトは誰かを探すように、一瞬、暗い頭上の窓を見上げたが、
何も言わず、黙って、杯の上に手を伸ばし、先ほど書いた紙片を落とす。

『ミズタマリ』に注がれた水が、
蔵の中が全て染まって見えるほど、パッと金色に輝いた。

「すっかり遅くなっちゃったな。
留守番しているカイトの熱が上がってなければいいが、」

進吾は帰途の道を進む車を運転しながら、
そう隣に座る妻の美奈子に言った。

「え? 今、何か言った。ごめん聞いてなかったわ。
丁度ラジオで感動する話してたから。涙が出そうになっちゃって、」

美奈子がそう答えながら、目に浮かんだ涙を拭こうと、
自分の鞄を開けてハンカチを探す。
ラジオでは今年を振り返るような話をしていて、
丁度子供たちが助けた野生動物とのふれあいの話をしていた。

「聞いたお話でそんなになっちゃうなんて、涙もろいね、奥さん。」

進吾が照れ笑いしながら涙を拭く美奈子をからかう。

「もう、嫌ね。」

涙を急いで拭き終わった美奈子がハンカチを鞄に戻そうとすると、
カイトの為に買ったゲームソフトの袋が、偶然手に引っかかって外に出た。

ゲームソフトの入った袋が、美奈子の膝の上に落ちる。

美奈子は怪訝な顔をすると、その袋を開け、中を覗き込む。


「ねえ?あなた。何でわたしこんな物を買ったのかしら?」

買ったゲームソフトを袋からつまみ出して美奈子が進吾に聞く。

「何を言ってるんだい、留守番しているカイトの為に、キミが買ったんじゃないか。」

進吾が言うと。


「留守番? カイトって… だれ?」

美奈子の答えを聞いて、進吾は驚き、思わずブレーキを踏んだ。

誰もいない蔵の中で、裸電球が二つ、ふらふらと揺れている。

それに照らしだされるのは、古い文机の上のノートと数枚の写真。

それから水の無くなった『ミズタマリ』。

そして、カイトが最初に書いて、握り捨てた紙片…


そこには、

「俺が戻るまで、皆の中の、俺の記憶を消してくれ。」

そう、震えるような文字で書いてあった。