無題55

ミズタマリ 4-2


「それじゃあカイト、わたし達は買い物に行って来るから、 ゆっくり寝ているのよ。 何かあったら、下におばあちゃんがいるからね。」

出掛けに母がそう心配そうに言って、父と一緒に車で出かけた。

カイトは布団の中で返事をして軽くうなずいたが、 母の顔をまともに見ることは出来なかった。
何故なら、生まれて初めて仮病を使って、母に心配をかけたからだ。

今は、昨日の午後父の生家に来てから一晩経った翌朝の十時。

いくら昨日の夜中々眠れなかったとはいえ、 もう布団にいる時間ではない。
しかもカイトは一度起きて、洗顔も朝食も済ませている。

とても悪い事だと思ったが、仮病を使ってでもカイトはこの家にいたかった。

昨日心に決めた事を実行する為には、 父と母が出かけるこの機会を逃すことは出来なかった。

毎年いるはずの伯父一家が留守で何の用意も無かったため、 祖母は昨夜あるだけの材料で夕食の用意をしてくれた。
それで、今朝の朝食を作ると、この家の冷蔵庫の中は寂しい状態になり、 カイトの父と母が頼まれて買出しに出かける事になった。

祖母は足腰があまり丈夫ではないし、 今時期は店も混んでいるから留守番をすると言い出して、 

昨夜から浮かない顔をしていたカイトに、 いとこ達がいなくて寂しいのだろうと考えた父母は、 一緒に買い物に行こうと誘い。
買い物に出れば気晴らしにもなるし、手伝ってもらうと助かるから、 今回だけ特別に新しい携帯ゲームのソフトを買ってあげるとまで、言ってくれた。

だが、買い物に出るという話を聞いたカイトは、それをすぐに断り、 自分は風邪を引いたらしく寒気がするからと、
さっさとパジャマに着替え、 一緒の家に残る祖母に昼食はいらないから、
父や母が帰ってくるまで寝かせて欲しいと頼み、 布団にもぐりこんでそこから出ようとしなかった。

カイトの事を心配していた母の声が耳に残っている。

つかなくてもいい嘘をついたことで、 仮病のはずなのに、本当に胸がチクチク痛んだ。
その胸の痛みを抑えるように、布団の中でうつ伏せになって掌で顔を覆う。
このまま父と母が帰ってくるまでずっとここで眠っていたい。
そうしてしまいたいと、切に思った。

でもそれは、出来ない。もう、決めたのだ。

あたたかな布団のぬくもりから、思いを断ち切るように起き上がる。
泣きそうな顔を隠そうともせずに服を着替え、 大きな鞄を斜めに肩にかける。
1階にいる祖母に気取られないように注意をしながら部屋を出て、
足音をたてないようにそっと廊下を進んだ。


一歩ずつゆっくりと階段を下りる。
まだ朝方なので、
部屋の中と違って廊下はひんやりとしているはずなのに、
分厚い上着のせいだろうか? カイトの体はじっとりと汗ばんでいる。

下につくと、奥のほうからテレビの音が聞こえた。

年末の時代劇を祖母が見ているのだろう。
一瞬、そのまま祖母のもとに走り、
何もかも忘れて一緒にテレビを見ようかと心が揺れる。
でも足は、玄関に向かって、静かに靴を履いていた。

靴箱の横に打ち付けてある釘の一つから、
古い鍵をそっと取って、上着のポケットに入れる。

細心の注意を払って、玄関の引き戸を開ける。

ほんの少し引き戸が開く時音がして、カイトはギクリと動きを止める。

テレビの音が途切れて、
祖母がこちらに向かって歩いてくるような気がしたが、
それはカイトの願望が思わせただけで、
実際には、テレビの音の合間に祖母の笑い声が聞こえた。

急いで玄関を閉める。
外は冷たい風がぴゆうぴゅう吹いてはいたが、まだ雪は降っていない。
風の中ほんの少しカタカタと揺れる玄関脇の赤い大きなポストに、
昨夜書いた手紙をカイトはそっと入れると、
唇をかみ締めて裏にある蔵に向かって走った。


蔵は近くで見ると思ったより大きく、そして不気味だった。

灰色とも黒味がかった緑色ともいえないような斑が、
元は白かったであろう蔵の壁に点々と浮いて、
まるで巨人が皮膚病にかかって死んだ骸の背中のように見える。


ポケットから鍵を出して蔵の鍵穴に差し込む。
重い扉は、昨夜カイトの父が油をさしてから開けたのだろう、
思ったよりすっと、簡単に開いた。

自分一人が入る隙間を開けて、蔵の中に飛び込むように入る。

高い天井に近い場所の格子のある窓から入る、鼠色の曇の間の、
ほんの少しの光を頼りに、薄闇の中で目を凝らしてスイッチを押すと、
裸電球が二つ、蔵の中をぼんやりと照らした。

昨夜遅くまで父がここで、
『ミズタマリ』の事を調べていたのをカイトは知っていた。

父から聞いた訳でも、尋ねた訳でもない。
でも、ここに旅行に来る前に何度も『ミズタマリ』の事を父と話し、
父が漏らした言葉から、それが解かっていた。

実を言えば、昨夜の夕食の後、入浴を済ませたカイトは、
あのカイトにあてがわれた部屋の窓から、
父がこの蔵に入り、
天井に近い小窓から灯りが随分と遅くまで灯っているのを、
部屋の灯りを消して、父が蔵から出るまで見ていたのだ。

カイトは大叔父のノートが消えたあの日、
父に色々な話を聞いた後、その恐ろしさをこんこんと説かれ、
もう『ミズタマリ』にかかわらないと約束させられていた。

だから父は、
まさかカイトが密かに『ミズタマリ』を、
こっそりとここまで運んできたことも知らないし、
今、こうして仮病だと嘘までついて、
勝手に蔵に入っている事も、思ってもいないだろう。

カイトは今まで父や母を裏切ったことは無い。
愛されて育った彼には、そんな事をする必要はなかったのだ。

だが、カイトは、今、父も母も裏切ろうとしている。


今朝、父ではなく母に、父が手洗いに立っている間に小声で、
カイトは、昨日の夜父が何をしていたのかそれとなく聞いた。

母の答えは、
父は同窓会の為に、昔の写真を探していると言うことだった。

確かに、蔵の中の一段高くなった場所に敷いてある、
古びた絨毯の上の文机の上には、
何枚かの写真が何か薄い物の上に載っているのが見える。

壁に寄せるように置かれたダンボールや茶箱、
古い引き出しの壊れた箪笥。
そして畳と同じような材質で出来た沢山の茶色い箱や壊れた木箱。

それが山積みになった真ん中の空間に、ぽつんと置かれた文机。

カイトが靴を脱いで板張りの一段高くなった場所に上がり、
その足下の床板の冷たさに驚いて急いで、
そばに敷いてある絨毯の上に足をのせると、
古いが見た目が分厚くあたたかそうな絨毯から靴下を履いた足の裏に、
さらにひんやりとした冷気を感じた。

驚きながらその冷気を無視するように文机の前に座る。
じわりじわりと足から体が冷えていく。

暖房が蔵に無いと知って、着てきた厚い上着は何の役にも立たない。
堪えようとしても、体の奥がぶるぶると震える。

二つの裸電球に照らされて一瞬白く見えた文机の上の数枚の写真は、
カイトの父の学生時代のものとは思えないほど古臭く。
もしかしたら祖父か大叔父の物だろうと思われた。

そっと、その写真をどけると、写真の下に見えたものは、
あのカイトの部屋から消えたノートとは少し違う、古いノート。

表紙には何も書かれていない、所々に染みのついた薄赤いノート。

カイトは、あたりの寒さからではない、怖気を感じて、
ぶるぶると震える指先でそのノートを引き寄せて開いた。

一番最初の頁には、大叔父の名前の「輝也」ではなく、
祖父の名前の「和也」という名前と、
『ミズタマリの不思議』という文字が、小さく、書かれていた。