無題55

ミズタマリ 3-6


「ふう…」

疲れきった顔で、カイトの父進吾がネクタイを緩める。

歩き疲れた足を投げ出すようにドサリと座ったソファーから見える時計は、 もう、日付が変わったのを教えている。

「せめて、靴は革靴じゃないのを履いていけばよかった。」

その覇気の無い声の様子から、 捜索が良い結果ではなかったことを感じとった妻は、 そう呟く彼の言葉にただうなずいて、湯気の立つ珈琲を差し出す。

いつもミルクだけで砂糖を入れない進吾が、珈琲に砂糖とミルクを入れる。
それから、冷たく冷えた体を温めるように、静かに口に運んだ。


「香ちゃんは、何処にもいなかった。」

一息ついた彼は妻に、ただそれだけ言った。


寒い夜の戸外で、警察と協力しながら、 色々な家を尋ね、訳を話し、頭を下げ、そして部屋の中まで入った。
人の家の庭や生垣の間、そして溝を覗き込み。
ほんの少しの隙間も見逃さないように、声を掛け合って公園も探した。
学校も、川辺も、廃屋も、空き家も。
ほとんど町内の男達は総出で香の姿を探した。
警察犬も出動して、捜索に加わった互いの家までも探したのだが…
香の姿は何処にも無かった。

…それを伝えた時の、香の両親の落胆。
声を殺して泣く母と、気丈に悲しみに耐えて、捜索した者達を労う父。

見知った家族だからこそ、進吾はそれがとても居た堪れなかった。

「そう、」

妻もそれしか答えない。

先刻、捜索の手伝いをしに行った夫が一度戻ってきた時は、 彼の早い帰宅に喜び、 それでは香が見つかったのかと、玄関先で夫に色々と尋ねたのだが、 その最中、彼の姿に続いて他の男達が頭を下げて家に入り、 この家の中にまで香の姿が無いのか探しに来たのだと知って、そこまでしても香が見つからない事を、悲しみ。
同じ年頃の子供を持つ母親として、香の両親の気持ちを考えると、切なかった。

「もう、休みなさい。」

進吾が妻に言う。

「あなたは?」

そう尋ねる妻に、彼は明日は会社が休みだからもう少し起きていると言った。

妻が二階に上がる足音が聞こえる。

それを聞きながら進吾は、冷たくなった珈琲のカップを手で弄び、ただぼんやりと、ついていないテレビの画面を見る。
そこには電灯で照らされた歪な自分の姿が見える。
それを見るともなしに見ている虚ろな頭の中では、 この秋運動会でカイトと一緒に笑っていた香の姿が揺れていた。

人として、親として、やりきれない気持ちが湧いた。

「父さん。」

いつの間にか俯いて考え込んでいる進吾の耳に、カイトの声が聞こえた。
ハッとして顔を上げると、居間の入り口にカイトが立っている。

「どうした、眠れないのか?」

パジャマに着替えてもいないカイトに父が聞く。

「うん。」

カイトは返事をしながら、父の横に座った。
ソファーが、少し揺れる。

「そうか、夜中に捜索の人が家に上がったからな。」

返事をする代わりに、小さくうなずくカイトの姿を見て、父は、香の姿を探すために先刻家に入れた男達の事を思い出す。
誰もこの家を疑っている者はいなかったが、他の家庭も全て調べさせてもらった以上、やはりしたほうがいいという声が捜索に加わった者達から挙がり、それで捜索に加わった者の家も、例外なく調べることにしたのだった。

「夜中に部屋に何人も人が上がってきたら、確かにわたしも眠れないな、 驚かせて悪かったな、でも、でもな仕方の無いことなんだ。 明日は確か学校は休みだろう、今から眠って昼まで起きてこなくても、 怒らないから、もう眠りなさい。」

父は息子に優しくそう告げる。


「眠れないのには、他にも訳があるんだ。」

カイトは、父の顔を見つめて、そう呟く。

父がそれは何故かと聞く前に、カイトは、暗い声で話し始めた。

「父さんは俺の部屋に、あの杯があるのを知ってるよね。 アキラが消えたあの日から、俺の部屋のクロゼットに入ってるのを、 俺は最初恐くて、しっかり風呂敷で包んでそこに押し込んだんだけど、 父さんに話を聞いてから、アキラの事は納得したし、 あの杯も恐くなくなってしまって、ずっとそのまま、放っておいたんだ。
いつか和室の押入れに戻そうと思ってたけど、忘れていたんだよ。
それで、それが、父さんが捜索に行った後、部屋に行ったら、
クロゼットの中に、あの杯が出ていたんだ。

風呂敷を下に敷いて、入っていた箱の上に、
ちゃんと蓋をした箱の上に、杯が、載っていた。
杯には、水が入ってて… アキラが消えた時と同じだった。」

カイトは、今にも泣き出しそうに顔を歪めて父に言う。

「カイト! それは… それじゃあ、香ちゃんは…」

カイトの話を聞いた父は、驚いてカイトの話を遮る。


香は自分の意思で『ミズタマリ』に逃げ込んだというのか?


「いや、そんな馬鹿な、あそこに行った者の現世の痕跡は消える。 この家の血を引く一部の男子以外、全て痕跡が消えるんだ。 あの、一緒にあった古いノートにもそう書いてあっただろう。」

父は、カイトに掴みかかるような勢いで、そう聞いた。


「その、ノートも無いんだ。」

カイトは、顔を歪めたまま、搾り出すようにそれだけ言って、 溢れる涙を隠すように、座ったまま頭を抱えた。