無題55

ミズタマリ 3-7


「そんな馬鹿な事は考えられない。カイト、おまえ香ちゃんが居なくなった事で、相当混乱しているんだ。
もし、香ちゃんが『ミズタマリ』に行ったとしても、 あそこは自分で望まないと行くことは出来ないはずだ。
望んで行った者の痕跡は、向こうに行った途端、その時の杯の水と一緒に消えると聞いた。
わたし達、小林の家の男達の記憶を除いて、全て消えるんだ。
だが、おまえの話では、杯に水が入っていて、しかも皆が、今現在、香ちゃんの事を知っている。
香ちゃんは悲鳴をあげて居なくなった、だからそんな事は無いだろう。
もし、誰か他の者に連れて行かれたとしても、香ちゃんを連れてこの家に忍び込み、杯を使う事は無理だ。  たとえ窓から入り込んだとしても、階下にはずっと母さんが居たんだぞ、何者だろうと香ちゃんを抱えてこの家の二階に入ったとしたら、
不振な音がして必ず気が付くはずだろう。おまえの考え過ぎだ。
わたしも一緒に探すから、あのノートを見つけよう。
杯が出ていた事も、もしかしたらカイトが留守中に母さんが出して見て、片付けるのを忘れたかも知れないんだから… 」

カイトの父進吾は、まるで自分自身に言い聞かせるように、静かな声でそうカイトに言いながら、一緒にカイトの部屋へ入る。

カイトの部屋は暖房が効いて階下よりあたたかく、白い蛍光灯の灯りが眩しい。
普段とまるで変わらないような平穏なカイトの部屋。
父と息子は黙って古いノートを探し始めた。

わざとなのか無意識なのか、カイトはクロゼットを避けベッドの下や自分の机の後ろなどを探している。
父は、そんなカイトを見ても何も言わず、クロゼットを開けた。

確かに杯が箱の上にのっている。
何度も父の家で見た事のある、古ぼけた桐の箱の上にのっている。
下の箱の古いがある種漂う風格とはまるで似つかわしくない、
こどもが泥でこねたような安っぽいテカテカと光る杯。
『ミズタマリ』
嫌な物を掴むようにそれをそっと持ち上げて見ると。
確かに息子が言ったように、その中には水が入っていた。

(これはな、水を入れて使うんだ。
おまえは強いから必要ないかも知れないが、
後の者に引き継ぐために、使い方だけは知らないといけない。
なんでなら、おまえが一番良いと、この『ミズタマリ』を引き継ぐのに一番適していると、輝也兄さんがそう言っていたからな。)

進吾は杯を手に、末っ子の自分に父が何度も言い聞かせていた話を急に思い出す。


馬鹿な、『ミズタマリ』があるのは仕方なく信じるとしても、それを小林香が消えた事と結びつけるのは間違っている。

『ミズタマリ』の中に人を呼び込めるのは、その時の主だけだ。
それに聞いた話では、輝也という人はまだそれをした事が無い。
前の主と呼ばれた人物も、いつも自分の身内の男だけを招いて、
『ミズタマリ』を引き継いでくれと願い断るとすぐに帰したという。
他人の家の家族、しかも年端もいかない娘を…
父が慕っていた兄の輝也という人が、そんな事をするとは思えない。

困惑する思いを抱え、進吾は元の場所に杯をそっと置くと、クロゼットの中でノートを探し始める。

「あ、」

進吾の背後から何かに気が付いた息子の小さな声が聞こえた。

「見つかったのか? カイト。」

ノートが見つかったのかと振り返る父の目には、埃にまみれた分厚いメモ用紙を手に、ブルブルと震える息子が見える。

「どうした?」

只ならぬ息子の様子に駆け寄って、その手の中のメモを見る。

「何だ、何も書いて無いじゃないか?」

蛍光灯の灯りの下でただ白く光る紙片の固まりを見て、父が急に気の抜けたように言う。

「これは、アキラが向こうに行く前に使ったメモ用紙なんだ。」

カイトは、泣いたような笑ったような妙な顔でそう言って、白く何も書かれていないメモの上を鉛筆でそっと擦りだす。

カイト鉛筆で黒く染まる紙面に薄っすらと白く浮かぶ文字。

松井アキラという少年は筆圧が高かったらしい。 旅立つ前に願いを書いた時、その文字の跡が下の紙に写って残ったのだ。
それは勿論、メモがカイトの物だったから残ったので、 アキラ自身の持ち物か、他の誰かの物ならば、それもアキラが消える時一緒に消えたはずだった。

不思議で皮肉な偶然の忘れ物が、何故か今カイトの手の中にある。

細かに手を動かし、目の前の紙面を何度も擦るカイトの上から、それを覗き込んでいた進吾に、少しずつ現れる文字が読めた。

それは…

『 俺は香と今から向かう国の王になる! 』

あの時、アキラが、『ミズタマリ』に旅立つ直前に、彼が本心から願い、力強く書かれたと思われる。

そんな言葉だった。