無題55

ミズタマリ3-5

「いったい、何があったんだ? 自分の家に帰るのに、何度も警察官に呼び止められたぞ?」

カイトの父、小林進吾は帰るなり、 コートも脱がずに、居間に座る妻に聞いた。

「それが、あなた、あの、一寸、」

妻の美奈子はソファーの上で頭を抱える息子のカイトを気にして、カウンターで仕切られたような台所に夫を押していく。

「何、それは? それは本当なのか?」

妻から耳打ちされて、進吾の顔色が変わる、 ほんの数軒先の家で、二階にいたカイトの同級生が自宅から、消えた。
他の家人が階下にいるのに、悲鳴を上げて何者かに連れ去られた。
進吾は小林香を知っている、カイトと同い年の髪の長い利発な女の子だ。
小さな幼児ならいざ知らず、あんな大きな子を二階から…家人がいるのに?
進吾には妻から聞かされた話が、信じられなかった。
いや、本当は、そんな事、信じたくなかった。

突然、電話が鳴る。
美奈子がその音にビクリと驚いて、躊躇する。
何かを恐れているような彼女の代わりに、進吾が受話器を取った。

電話の相手は町会長で、丁度進吾にかけられた電話だった。
それは、今から町会の有志で、消えた香の捜索に手を貸すという話で、 警察や香の両親達からも、頼まれているという。
営利誘拐にしては大胆な手口と、犯人が車に乗った形跡が無いので、 もしかしたらまだ何処かの植え込みの陰に犯人がいるかも知れない。
ひよっとするとこの町内の誰かが犯人か、 もしくは、犯人を匿っているかも知れないので、それを頭に入れ、 しらみつぶしに一軒一軒この辺りの家を訪ねて、 見慣れぬ顔が無いか、いつもと違う怪しいそぶりの人物がいないか、 調べるのに手を貸して欲しいと言うのだ。
確かにそれには、 その家に住んでいる者の顔を知っている者がいなくては難しい。
カイトの父進吾は、その話を聞くと、すぐに承諾して、 その場で妻にそのことを早口で説明すると、仕事に使う鞄だけをそのまま台所の床に置き、着替えるのももどかしく、スーツとコート姿のまま玄関に向かった。

「俺も行く。」

玄関で靴を履く父に、母との会話を黙って聞いていたカイトが、叫ぶような声でそう言って、一緒に外に出ようとする。

「おまえは、家にいなさい。同級生が心配なのは解かるが、これは遊びじゃないんだ。 それに、今から訪問する家の人達の顔をおまえは半分も知らないだろう。」

父はカイトにピシャリとそう言って、一人外に飛び出すと、目の前の玄関ドアを閉めて、外から鍵をかけた。

カイトは父の言葉に何も言い返せず、そのまま玄関に残った。

確かに、町会の行事などで各家庭の家族の顔を知っている父のように、捜索に協力できるとは思えない。

でも、自分にとって、同級生だけではない、特別な女の子が窮地に立っているのに、何も出来ない非力な事が悲しくて、カイトは玄関先に立ったまま俯いていた。

「カイト、そこは冷えるわ、」

母が、何度もそう声をかけ、問いかけに答えず、ただ俯くカイトの手を引いて、あたたかな居間に連れて行く。

そして、そんなカイトを元気づけるようにそのままテーブルに着かせ、 「お父さんは後から食べるから、先に食べたら。」 

そう食事をするようにと、湯気のたつ茶碗を差し出した。
母の気遣いは痛いほど解かったが、食欲は無い。カイトは、声も出せず。悲しげに首を振って答える事しか出来なかった。

「でも、少しでも食べたほうが良いわ。」

「いらない。」

心配する母には悪いとは思いながらも、カイトはそれだけ言って、叫びだしそうな気持ちを抑えるように、急いで自分の部屋に戻る。


俯いて入った自分の部屋は、今まで暖房がついていなかったせいで、薄ら寒い。
カイトは手探りで、電灯のスイッチを入れる。

ふわり…

灯りに照らされて、窓のカーテンが揺れていた。

ふと、気づくと、窓の鍵がかかっていない。
…細く、窓が、ほんの数ミリだけ開いている?

おかしい、確か出かける前に、ちゃんと閉めたはずなのに。

驚いたカイトは、窓とは反対側のクロゼットのほうを見た。


そこも、ほんの少し開いている。


まさか! もしかして、ここに香が?

突然、悪漢の影と縛められている香の姿がカイトの頭に浮かび、焦りつつも、恐る恐るそこを開けようと、手をかける。

ガタン…
クロゼットの扉が開く。

そこには、香の姿も、怪しい者の姿もなかった。

今は着ない洋服がしまってある箱や、使わない玩具の箱。
それに吊るされたカイトの服が並んでいる。

それはクロゼットを開けるたび、何度も見慣れた物ばかりだった。

違う!

その中に、何かを見つけたカイトの顔色が変わる。

確かにしまっていたはずの、茶色の杯が一つ。

静かに水を湛えて、そこにあった。