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なぜ、釣りを面白いと感じるのか

なんとなく、40歳を前に会社を辞めて、フリーランスになった。
“なんとなく”と書いたけれど決してフリーランスをあまいものだと考えていない。いつも、毎秒、ビクビクしている。できればどこかに就職がしたい。

なんでそんなことになったのか。
それは、昨年の末あたりから始めた「焚き火」が関係している。

最初は、仕事の企画アイデアを出すための時間だったり、関わっている仕事のブランディングに関係して(アウトドア趣味のお客さん心理を掴むため)始めた焚き火だったが、その工程の面倒臭さや、炎をただ眺めるその緩やかな時間に、魅了されてしまった。

落ち葉を拾い、細い木を折って、火を育てながら大きくしていく。ある程度火が育ったら、ヘリノックスのチェアに座って、フィールドノートを片手に企画を考える。休日の過ごし方として、深く考えず、なんとなく自分の性に合ってるな、と思っていた。

それから、仕事で知りあった友人と釣りに行く機会があった。
正直何もわからないレベルだったが、コロナ禍に一度釣り公園に行って、店員さんに仕掛けを教えてもらい、道具は揃えてはいたので、なんとかなるか、と気軽に誘いに乗らせてもらった。

仕事の話や、関係ない話をしながらする釣りは、とても楽しかった。一匹も釣れなかったけれど。

「釣り」と「焚き火」この二つは、アウトドアというジャンルの中でも、自分の性に合う趣味になったのだが、大体において根っからの出不精なので、なんとも不思議に思った。

まるで中毒のように、外に出るのが楽しいのだ。

なぜこんな楽しいのかを、釣りをしながら友人にも問いかけてみると、逡巡しながら「強制的に一人になれるから」という答えが返ってきた。なるほど、それはそうかもしれない。

誰かと行っていても、釣りは一人になれる。なんとなく二人を感じたい時声をかけると二人になれる。
考えることはどうやったら釣れるのか、仕掛けはこっちにしたほうがいいのか、それだけ(初心者の自分は、まだそれだけ、というところもあるかもしれない)。

焚き火にもそんな要素があるような気がしていた。話したければ話せばいいし、無言になったら、強制的に火の面倒をみなければならないから、作業が発生する。


もともと、自分は変に考えすぎる性格をしている。
飲み会の後などには、でしゃばったのではないか、こんなことを言って良かったのか、などぐるぐると頭に出来事が回って眠れなくなり、次に誘われても、前が楽しければ楽しいかったほど、参加しにくくなってしまう性分であった。

仕事も、遊びも、なんでもそんな調子なので、焚き火や釣りのような、強制的に目の前のことに集中せざるを得ない状況、そしてそれが「釣れる」「火が立ち上がる」という成功体験に素直につながる状態というのは、とてもスッキリとする。

なにせ、相手は自然である。
どんなことしようが、受け止めてくれる大きな懐を持った相手である。

考えるというのはいいことでもあるし、考えすぎるから、評価されることもある。他人のことを思いやることもできる場面だってあるだろう。
しかし、それをしすぎると自分がどこかへ行ってしまう、と思った。

本当の自分、なんて思春期のようなことは言わないが、他人を考えすぎると“他人の大切にしていること”が自分の大切にしていることになってしまうかもしれない。

焚き火が作った、強制的に自分の時間を作ることが、ここまで連れてきてくれたので、一度、その時間を大切にして、自分の大切なことを見直すことが、良いのかもしれないな、なんて思ったりした。

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