スポーツはありふれた日常にシナジーする【野球に学ぶ#00】

スポーツの価値ってなんだろう?ということを、ここ最近はずっと考えていた。

学生時代は体育の授業が嫌いだった。私自身は子どもの頃からずっとソフトボールクラブと陸上のクラブに通っていたこともあって、体育の授業は苦労せず、むしろ得意としている方だった。それでも体育が嫌いだったのは、自分が好きなスポーツが、「誰もが平等に楽しめるものになっていない」ことが悲しかったから。運動神経が良くないというだけの優しくて他の才能に長ける子が、憂鬱な顔をしながら体育の授業を受けている光景は日本どこでも珍しくないのだろうか。そんな子たちの体育が嫌い・苦手という言葉や表情に子ども時代は勝手に胸を傷めていた。

もしもあの頃、体育の授業に「観戦」や「考察」という選択があったら、スポーツ好きの大人はもっと増えているのだろうなぁと、今はぼんやりと思う。

そんな私は普段は編集・ライティングを仕事にしており、ひとつの特集のためにチームプレーをすることもあれば、個人で仕事を完結させることもある。日常は、極めてありふれた都会暮らしのいち会社員で、お金やキャリアや結婚について人並みに考えたり、考えたくなくなってお酒で誤魔化すような脆弱さも併せ持っている。それとは並行して、子どもの頃からやっていたソフトボール経験を活かして半年ほど前に草野球チームに入部し、数ヶ月前からは日本やきう女子機構(NFB)に参加して球場やドームで野球観戦を楽しむという日々を送っている。

スポーツと日常を行ったり来たりする毎日が始まって、体育嫌いだった私が、「スポーツの価値について考えたい」と思うことになるまで、そう時間はかからなかった。

いちばんのきっかけとなったのが、野球チームの4回目の練習に参加したとき。それまで私は、チームに入部しても周りとの距離感がつかめず、同じチームという意識が芽生えなかった。その日の最後の練習メニューは「守備につく全員がノーミスで補給するまでノックを終わりません」という内容で、野球経験が浅い選手も含むうちのチームはなかなかノーミスで全員補給という課題をクリアすることができない。

次第に日も暮れ始め、みんなの集中力も切れかけていたところでキャプテンが喝を入れる。そして再びノックが始まって、もう何巡したのかわからない、照明をつけないとボールも見えないくらい日が落ちた頃、ライトの女の子がフライを補給した瞬間、みんなが飛び跳ねた。ノーミスで全員補給をクリアしたのだ。野球歴20年のキャプテンが、ショートでいちばん喜んでいたのを見たとき、みんなでハイタッチをしたとき、はじめてチームの一員になった気がした。

そのとき「チームワークって、徐々にできていくものなんだなぁ」と思ったこと。そして「これって、野球チームという組織内だけの話かな?」と思ったことが、スポーツの価値に近づいた瞬間だったと振り返る。

スポーツに触れると、上述したような、「目標への最短距離はなんだろう?」とか「才能ってなんだろう?」とか「思いやりってなんだろう?」とか、生きていく中では避けられないような問い・学びを持つことも珍しくない。「スポーツは人生の縮図」などと言われるのは、スポーツがそれだけ人生的な経験ができる器を持っていることを指すのだと思う。

であるならば、スポーツの気づきは、スポーツの世界だけで完結されるものではない。体育の授業だって、あれが国語や算数や社会とおなじように「義務教育」である意味を考えたら、体育の授業のために体育をやることが目的ではないはず。

スポーツの本来的な価値というのは、スポーツを通した問いや学びが、ありふれた日常にもシナジーしていくことなんじゃないか。こんなふうに考えた私は、追いかけたいスポーツの一つである「野球」を通して、自分の人生にどんな影響を与えられるのか、今とても気になっている。

スポーツが日常にシナジーする、野球が日常にシナジーする。その可能性を信じて、【野球に学ぶ】という連載をはじめます。


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