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当館収蔵の作家紹介vol.2 岡田三郎助 (おかだ さぶろうすけ)

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当館には近代の日本美術を代表する作品を数多く収蔵しています。展覧会を通じて作品を見ていただくことはできますが、それがどんな作家、アーティストによって生み出されたものなのか。またその背景には何があったのか。それらを知ると、いま皆さんが対峙している作品もまた違った感想をもって観ていただけるかもしれません。
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今回この連載で取り上げるのは岡田三郎助。数多くの女性像を描いた近代日本を代表する洋画家です。岡田のフランスで学んだ軽やかな色彩と叙情性溢れる作風は当時から評価されていたようです。その証拠に鼓を肩にのせた「婦人像」は博覧会で1位をとり、その後すぐ切手やポスターにもなりました。絵を見れば「ああ、これを描いた画家ね」というかたも多いのではないでしょうか。

「婦人像」1907年 岡田三郎助作 パブリック・ドメイン

当館ではこの画家の「水邊裸婦」1942年作を収蔵しており、現在開催中の展覧会「ひとの姿」(会期:2022年11月30日〜2023年2月26日)において展示しています。裸婦像を描くことは岡田が活動していた時代にはまだそう簡単ではなかったようですが、そんなことを微塵も感じさせない豊かな色彩と瑞々しさに溢れていますのでご覧ください。さてその岡田三郎助とは?

「水邊裸婦」1924年 当館所蔵

佐賀県生まれ。洋画家。婦人画など女性像を得意とする。1896年(26歳)黒田清輝、久米桂一郎とともに白馬会の創立に参画。1897年(27歳)第一回文部省留学生として渡仏。明治になり西洋文明が入ってきた際に、最初に洋画として学び始めた世代。よって留学生としても第一回であるし、洋画が文化として日本に根ざすことに貢献し、文化勲章ももらうが、それも第一回。ちなみに1937年第一回の文化勲章の絵画部門の受賞者は、岡田三郎助(洋画)、藤島武二(洋画)、竹内栖鳳(日本画)、横山大観(日本画)の4名。これを見ると日本に西洋文明が制度や文化として入ってきた際に、そこにいち早く乗り込んでいった世代とも言える。

左/「婦人半身像」1936年 右/「黒き帯」1915年 いずれも岡田三郎助作 いずれもパブリックドメイン

プライベートでは、いつも袴に白足袋という和風なスタイルで決めており、ガテン系だった洋画家たちの中では珍しくダンディ。1906年(37歳)小山内八千代と結婚。八千代の兄は自由劇場を旗揚げし演劇を牽引した小山内薫。「演出」という言葉はこの兄が作った言葉。妻八千代も兄の影響を受け小説・劇評・劇作などを書き演劇の発展に貢献している。後進の指導に熱心で1912年(43歳)藤島武二と本郷洋画研究所を創設。さらに恵比寿にあるアトリエの隣に女子洋画研究所を創設。そこから三岸節子、いわさきちひろ等を輩出した。このアトリエは現在、生まれ故郷である佐賀に移設されており岡田三郎助アトリエとして見学できる。現存する日本最古の画家個人のアトリエである。ドキュメンタリー映画「あるアトリエの100年」はこのアトリエに残された大量のフィルムで構成された映画である。

また染色工芸品のコレクターとしても有名で収集した着物をモデルに着せて描いていることも多い。これらの着物などのコレクション約900点は永久保存の約束で松坂屋に一括売却しており、今も松坂屋コレクションとして保管されている。「あやめの衣」など絵で見たことのある着物が、今もこのコレクションにある。

岡田三郎助
1869年 佐賀県で誕生
1871年 父と共に上京
1896年 黒田清輝氏等と共に洋画団体の白馬会を設立
1897年 第1回の文部省留学生としてフランスに留学
1902年 東京美術学校(現・東京藝大)の教授に
1939年 自宅にて死去

          [企画制作/ヴァーティカル 作家解説/あかぎよう]


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