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森鴎外と斎藤茂吉と川島芳子の父

家族歴史を調べていると、「よく私を見つけてくれた」という祖先の声が聞こえた気がするのは一度や二度ではない。
そしてまた、歴史の尻尾の先っちょを掴んだと感じることもある。

この書は義母の家にあり、処分しようかと案じていたもの。
義母の母方の祖父、斎藤秀雄は東大医科大学の学生の時分、森鴎外の自宅の観潮楼を訪ねて「小児科をやりたいんです」と相談している。秀雄は島根県益田市生まれ、鴎外の生家は近かった。

秀雄が長崎医科大学に赴任した時、精神科医で歌人の斎藤茂吉もそこで働いている。茂吉が下宿の門限に遅れて秀雄の下宿先に泊めてもらったこともあった。
その後、満州に赴任。
この書は秀雄が粛親王の邸宅に赴き、治療代の代わりに揮毫を所望したらしい。

清朝末期の皇族である粛親王は義和団事件平定後、紫禁城の崇文門税務衛門監督に任ぜられた。清廉潔白な粛親王は賄賂を決して受け取ろうとしなかったという。
のちに満蒙独立運動の先駆者となる川島浪速は紫禁城の宮内監督に命ぜられ、城内の秩序を保った。肝胆相照らした粛親王と川島浪速は義兄弟の義を結ぶ。

男装の麗人、東洋のマタハリ、ジャンヌダルクと称せられた川島芳子は粛親王の実の娘であり、川島浪速の養女である。

戦後、芳子は国民党政府によって銃殺刑に処せられたが、人気の高かった彼女は長い間生存説がまことしやかに流布されていた。

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