期待なんて、する人の勝手だ
一見、「期待」はポジティブな言葉のようだけど、たちが悪いと思う。そう考えるようになったのは、2014年にロシアで開催されたソチオリンピックがきっかけだった。
当時17歳の高梨沙羅選手は、連戦連勝の勢いのままその大会を迎えていた。金メダル候補としてメディアにも大きく取り上げられていて、日本中の「期待」は当然のように高まっていた。
結果としては、メダルには届かなかったものの、初めてのオリンピックというプレッシャーのかかる舞台で4位という大健闘だった。
――にもかかわらず、その時に世の中で感じられたムードは、健闘を称えるというよりも、失望に近かったのではないか。
膨れ上がった期待とは、こんなにも怖いのかと感じずにはいられなかった。
「期待」は本当にポジティブなことなのか
日常の中では、「期待される」という状況は前向きに捉えられることが多い。能力や頑張りを認めてもらえていると感じられるし、もちろん、応えたいという気持ちになる。
でも、そこには「期待」のネガティブな側面も隠れているかもしれない。
言葉の意味を辞書で引いてみると、
あることが実現するだろうと望みをかけて待ち受けること。 当てにして心待ちにすること。
とある。
意味にも含まれているように、「期待する」側は、受け身の姿勢で、何かが与えられることを求めているはずだ。
だから、一方的にかけられる期待に真正面から向き合うのは大変で――。
学校でも「いつも礼儀正しく、優等生だね」、会社でも「若手なんだから、これぐらいはこなせるでしょ」といった具合。ときには、その重さに潰されてしまうこともある。
結局のところ期待は、するのも、されるのも、勝手だ
最近は、自らが「期待する」ことについてのWeb記事やSNS投稿を目にすることが増えている。期待するからイライラするのであって、過度な期待はお互いに消耗してしまうと。
期待して当てが外れれば、裏切られたと、腹を立ててしまうことだってある。これは自分がした勝手な期待だ。
一方で、「期待される」ことは、”人に認められたい”という気持ちを満たしてくれるからこそ、より一層注意が必要だと思う。
受ける期待だって、してる側の勝手でしかない。
そう思ってみると、少し気持ちが楽になるのかもしれない。人からの期待に敏感だったり、多くの期待を集める立場にいる人で、「きついな」と感じている人はどうか無理せず――。
日常の中で感じたことを気ままに書いています。