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楽曲「蓮如想」の合唱版を公開致します。(日米合作作品の第3弾です)

この曲は蓮如上人(1415-1499)の「ご文章」に作曲したものであります。

本作品は、日本語の楽譜では米国合唱団様が読めず、歌えないと言うことなので、
IPA(International Phonetic Alphabet)と言う国際発音法により歌詞を表現した楽譜により合唱して頂いたものです。
お聴き頂ければ分かりますように、結果は日本人合唱団が合唱した、と言われても分からない位完璧な日本語(それも今から約500年以上前の日本語)で歌って下さいました。

長い間、教会音楽などを手がけて来られた団員の皆様には感謝の気持ちで一杯であります。

有難うございました。

また私の今回の経験から、以下のようなことが判明致しました:::
IPA表現による音楽は、国を超えて音楽を伝える事が出来ると言うだけではなく、時間をも超えて音楽の楽しさを伝えることが出来る、という事も証明されたのではないかとも思いました。


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私が子供のころは、祖父母世代の方々は何かにつけて、南無阿弥陀仏(なまんだぶつ)、南無阿弥陀仏(なまんだぶつ)と呟(つぶや)いておられたものです。

子供の私にとっては、大人達が何かにつけて「南無阿弥陀仏」、「南無阿弥陀仏」と唱えながら過ごす様を見て、その平和で安穏とした世界に大きな安心感と共に気持ちの安らぎを覚えたことを思い出します。

私のこれまでの人生のなかで、これまで遭遇した色々な場面でお世話になった方々やその他に関連する事項でも関係したすべての人々に感謝申し上げます。

人を偲ぶ、特に亡き人を偲ぶということは、私たちの心に安穏と心の平和をもたらしてくれます。

出逢いと別れの究極は、生と死でありましょう。

人を偲ぶということの究極は、亡き人を偲ぶことでもありましょう。

明日からの心の糧に、懐かしい方々を偲んでみようと、作曲致しました。


 をクリック下さい:
https://youtu.be/x5n4e1bhEpw    



「白骨のご文章」とは


「ご文章」は「御文(おふみ)」ともいわれ、蓮如上人がご門徒にあてて書かれた手紙であります。

その全文は以下の通りです:::

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、幻の如くなる一期(いちご)なり。
されば未だ万歳(まんざい)の人身(にんじん)を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。

今に至りて、誰か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。
我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫(もとのしずく)・末の露(すえのつゆ)よりも繁しといえり。

されば、朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。
既に無常の風来たりぬれば、すなわち二つの眼(ふたつのまなこ)たちまちに閉じ、一(ひと)つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装(とうりのよそおい)を失いぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)集まりて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半(よわ)の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。
あわれというも中々おろかなり。

されば、人間のはかなき事は老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。

あなかしこ あなかしこ。

ご文章の意味:::

次にこのご文章の現代語での訳の例を以下に示します。



それ、人間の内容の無い生活の様子をよく考えて見ますと、およそ何が儚(はかな)いかと言って、人間の生まれてから死ぬまでの間、幻のような人の一生ほど儚(はかな)いものはありません。

それゆえに、いまだ一万年の寿命を授かった人がいたなどということを聞いた事がありません。
人の一生涯は過ぎ去りやすいものです。

今までに誰が百年の肉体を保ったでしょうか。

〔人の死とは、〕私が先なのか、人が先なのか、今日かもしれないし、明日かもしれません。
遅れて死ぬ人、先立ってゆく人は、草木の根元に雫(しずく)が滴(したた)るよりも、葉先の露が散るよりも数多いといえます。

それゆえに、朝には血色の良い顔をしていても、夕暮れには白骨となる身であります。

もはや無常の風が吹いてしまえば、たちどころに眼を閉じ、一つの息が永く絶えてしまえば、血色の良い顔もむなしく変わってしまい、桃やすもものような美しい姿を失ってしまいます。

そのような事態になると、すべての親族・親戚が集まって嘆き悲しんでも、どうする事もできません。

そのままにはしておけないので、野辺に送り荼毘(だび)に付して、夜更けの煙と成り果ててしまえば、ただ白骨だけが残るだけです。

哀れと言っただけでは言い足りません。

世の中のこのようなはかない事は、歳をとっているか若いかの問題に関係なく起きる、老少(ろうしょう)不定(ふじょう)の境遇であります。

どのような人も後生(ごしょう)の一大事を心に留めながら、心から阿弥陀仏を恃(たの)み申上げて、念仏申すべきであります。

おそれおおいことよ、おそれおおいことよ。


英訳:「ご文章」:English Lyrics


Deeply Observing the transient nature of Human life
We see that our lives are impermanent and like an illusion
from beginning to end
Thus, no one has ever heard of a person living for ten thousand years
A lifetime is fleeting to this day who has been able to hold onto life
for even a hundred years?
Who knows if they or someone else will die first?
Will it be today, or tomorrow?
Whether they pass away sooner or later,
the deceased are more abundant than the drops at the roots
And so, a youthful complexion in the morning may be no more than
white bones by evening.
When the winds of impermanence blow on us, our eyes Immediately close
When the last breath has been taken, the youthful complexion is lost.
When the peach-like freshness is gone, it will never return,
no matter how the relatives may gather to grieve and wail.
Since, There is nothing we can do
we carry the remains out to the fields for cremation
A trail of midnight smoke and only the white bones are left behind
Sadness, Sorrow, Grief,,,: No words can describe this
Thus, because the transience of human life comes equally to both the young and old,
we should all immediately, attend to the most important thing : the afterlife
We should trust deeply in Amida Buddha(sama)
and repeat the nenbutsu
Respectfully, Anakasiko


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