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交通安全2月参加作品: 私もしました 免許返納(その2)

(注)上の写真は私の生まれた門前町にあります交通標識であります。
   説明: 当八日町通りは参詣観光の要路
       にして善男善女の「思いやり」
       通りなれば
       一、老若男女を問わず歩行
         者を優先すべし。
       二、軒先に駕籠(自動車)馬(バイク)
         を長く停むべからず。
       三、早駆(速度違反)は、常に
         すまじきこと。
           井 波  警  察  署
           区 域 交 通 安 全 協 会

「交通安全を願う輪」このサークルの参加作品です。
   Jオヤジさんを筆頭に活動中です。


私もしました免許返納(その2)


前回(その1)のまとめ

前回(その1)の投稿では、

運転をつづける場合のメリットとデメリット、運転を止める場合のメリットとデメリットなどを考えたことをお話し致しました。

 その一方で自分が一端、人身事故を起こしてしまえば「どのようなメリットもデメリットも」全てが単なる机上のあるいは空想上の絵空事で終わるのではないか? という重大な事実に直面してしまいました。

 つまり、人様を傷つけてしまえば、もはや空想の世界は一瞬で消え去ってしまうと言うことに気付きました。

それは絶対に避けなければならない事態を意味していました。

 

こうして私の決断は次第に免許返納へと舵を切り始めていきそうになりました。

 

しかし、

このような比較だけではまだまだ不十分であり、何かが欠けているように思えたのです。

つまり、実際に人身事故を起こす起こさないにかかわらず、人々はどのように高齢者の自動車運転問題に対処しているのであろうか? という現場での実際の情報が何も無かったからであります。

周囲には、相変わらず運転している同年配の人も沢山おられるようでした。また、中には大きな事故を起こしたにもかかわらず運転し続けている人も見聞きしていたのです。

その方の度胸に驚くと共に、自分がそのような立場になったときにはどのように対処出来るのか? との思いが頭の中を駆け巡りました。

その方の事例があまりにも具体的で詳細に知る機会があったために、何日間か考えた末にたどり着いた結論は、自分にはそのような事故を起こした後も運転すると言うような気持ちにはなりそうもない、との最終判断になったのです。

因みにその方は、現在も運転を続けていらっしゃいます。

一方の私は、既に免許を返納して運転を止めて数年間経った今でも、運転する気持ちになれないところが有ります。

きっとそれは、現在の(免許を返納して運転を止めた)「生活を続ける」と言うエナーシャが働いているせいなのかもしれません。実際に運転してみれば、問題も無く楽しく運転生活を送れるのかもしれませんが、、、。

 

私と周囲の方がた(特に大事故経験者)との違いは何だろうと思いをめぐらせてみました。

勇気?度胸? それともどうしても運転しなければならない特別の理由があるの? 
その人を車の運転に駆り立てるような特別の理由や訳があるのだろうか?

結局のところそのような理由は判然とせず、時々嬉々として運転されている様子を拝見すると、やはり感性の違い・度胸・勇気なのか、、、?

一方で、あるいは事故を起こしていない人たちは単に運が良いだけなのか?等々と考えざるをを得ない、等の煮え切らない結論に達しました。

 

このように一見現実的な側面から見た他人の運転状況の検討をいくらしても、自分の場合に当てはめようともがいても、何ら魅力的・建設的な答えを導いてくれるものではない、との思いがしてきたのです。


もし免許返納したら、私の生活はどう変わるのか???

その一方で、私は免許を返納した場合の生活の質がどうなるのかについての絶望的な予測・憶測で苦しみ始めました。

 歳と共に衰え行く我が身の生活では、車のない日常は考えるのも鬱陶しい程の暗い生活を予感させるものだったのでした。

車の無い生活での買い物・買い出しや、車が無くて自由に回れない旅行先・温泉宿等などが、暗い私の未来になって見え始めてきたのです。

 それまでは必要なものは大抵、すぐに手にはいるような生活であったために、ここで急にその生活を変えざるを得なくなるという事は、正に青天の霹靂と言うに相応しい出来事だったのです。

 

一方で、人は高齢になるにつれてあらゆる環境の変化に対応しにくくなる、とよく言われています。

私自身このような、いわゆる「定説通り」の高齢化段階を順調に(?)進んできていることは明らかでした。

そのことを認めたくはないのですが、自分自身を欺いてまで気づかないふりをすることも出来そうにもありませんでした。

しかし自身の高齢化による「定説通り」の老化を認めることは、私にとっては重大局面に立たされる一大事でもあったのです。

言ってみれば、私の人生過程での最大の敗北を喫するような感覚ですらあったのでした。


 そうです、私は敗北してしまったのでした。
つまり私も既に立派な(?)高齢者の一人に過ぎなかったのでした。

 

敗北感からの立て直し


理屈から言えば、「高齢イコール敗北」、と言う考え方は成り立たないのですが、これまで「若いですね」とか「若いっていいね」とか、若さが人間の評価基準の一つとして喧伝されてきたように、私も無意識のうちに「若さ・若いイコール良い」、を盲信してきたのです。

追い詰められていた私は、「高齢イコール敗北」の縛りからの逃げ道を求めて、「高齢イコール善」への逃げ道を探し始めました。

「高齢イコール善」への逃げ道

それでたどり着ついたところは、高齢者ならば高齢者らしく行動していればそれで良いのではないかと言う割合控えめな考え方でした。

事の大小にかかわらず、これまでは、あるいは今までは可能であったことが、ある段階から急に不可能になる、と言うことはこれまでも色々な局面で経験してきていました。

従って現在の苦境も単なるその中の一過程に過ぎない、との思いも出始めました。

そのような事から次第に、今のままで自己を否定する事無く明るい未来への光を見つけるとしたらそれはどこにあるのか? と言う考えが出始めました。

そしてその考えを表す簡単な言葉を口にしてみました: 
「高齢イコール敗北」から「高齢イコール自然の成り行き」、
もしくは、
「高齢イコール自然なる成長」、
「高齢イコール神様が与えたもうた成長」、
「高齢イコール神様からの余録」、
「高齢イコール神様からのおまけの贈り物」
・・・等などの言葉が意味も無く次から次へと浮かんでは消え、浮かんでは消えしていきました。
が、どれも満足出来るものではありませんでした。

考え疲れて、お腹がすいた頃に、、、


腹八分目

 
その時に思いついたのが、「腹八分目」と言う言葉でした。

あれもこれもと欲望のままに、何でも満腹になるまで口に入れようとすることを諫めるようなこの言葉は、私の強欲さを減ずる大きな効果を持つに十分な言葉でした。

 

そして少々ニュアンスが異なる云い方かもしれませんが、より成長してからよく聞かされた言葉、「足るを知る」がすぐに私の脳裏に浮かびました。

こちらの方がより知的な語感があります。
「腹八分目」はより直接的な訴求力があり、私の子供時代からの慣れ親しんできた言葉でもあったのです。

従って、ここでは以降「腹八分目」で説明して行きたいと思います。

子供の頃から言われ続けててきた「腹八分目」が、今になって苦境の中にいる自分を助け出してくれることになるとは思いもしなかったのです。

 

昔から、「腹八分目」が人間の心身の健康に最も良い、と言われ続けてきたのにはやはりそれなりの理由があったのだろうと思いました。

「腹八分」と言う言葉は、実は最近ではイギリスでも「Hara Hachi Bu」として使われ始めようとしているそうです。

イギリスのデイリーメール紙の記事:
https://www.dailymail.co.uk/femail/article-10457649/Want-live-100-Copy-Japanese-says-senior-associate-Royal-College-Medicine.html
“Want to live to 100? Copy the Japanese, says a senior associate at the Royal College of Medicine” 「100歳まで生きたいですか? ならば日本人の言葉に習いなさい、とロイヤルカレッジ・オブ・メディシンのシニア准教授は語ります」
をご参照ください。


こうして私は、これまではあれもこれもと全てを満たす生活環境を求め、自らの物理的・身体的制約等をあまりにも考慮せずに過ごしてきたことにようやく気がつき、これまでの生活全般を反省せざるを得ませんでした。


かくて私は免許を返納いたしました



免許を返納する、というたったそれだけのことですが、そのことの重みが意外に大きかったのです。

それは、社会的に認められた個人の権利の一つでもありました。
その個人の権利を返納すると言うことは、その個人の権利に関わる世界(車の運転をする世界)での資格を失うと言うことでもありました。

それは、社会的な存在としての私が、「車の運転をする世界」では存在が認められず資格が失われた、と言うことでもあったのです。

社会人としての世界の中で、私には「車の運転をする世界」に立ち入ることはもはや許されない、と言うことになったのです。
これは勿論、個人としての私の運転免許の返納という意思表示によって生じた結果であります。

同時にこの「運転免許の返納」は、私に大きな喪失感を与えました。
それは社会生活での「車の運転をする権利を喪失」したにすぎませんが
同時に車の運転から得られる利益や楽しみの喪失をも意味しました。


「運転免許の返納」の大きな利点


しかし「運転免許の返納」から、一年位経つ頃から感じ始めたのは、喪失感ばかりではなくなり、次第に「運転免許の返納」の大きな利点もあるなぁ、との意外な(真逆の)感覚がで始めたのでした。

確かに免許返納当初は、車を売却したり車の清掃用具を廃棄したりと全てが無くなる方向にあるため喪失感が多々ありました。

その内、車の税金やメンテナンス作業とその費用、燃料補給とその費用・保険・税金等々が不必要になり、更に運転での事故などの心配もしなくて良い事からストレスが無くなり日常生活に安心・安全感が増してきたことに気がつき始めました。


むしろ子供達の家族が車で自宅に訪問してくれる際には、その際の交通事故を心配し、あるいは無事故を祈るといった事が私の日常生活での大きな関心事になってきていることに気づきました。

もはや自分が事故から解放されて自由の身になったが為に、子供達の無事故を祈る事への傾斜がより強化され始めたのでした。


子供達の車運転での無事故を祈る

祈り

そして周りの全ての人々の無事故をお祈り致します。


そうです。
高齢になり、物理的に出来る事が少なくなるにつれて、私は自分が出来る事が逆に増えてきているようにも思えたのです。
その増えてきたこととは?
  たとえ運転が出来なくなっても、
  私には子供や孫、その他知り合いの方がたの交通安全や、健康・幸せを
  祈る事
が出来るし、やらねばならないと思うからなのです。
子供達に代って運転をする事は出来ないけれど、私には子供達の無事故を祈る事は出来るのです。

子供達の幸せを祈る事も出来るのです。



出来ない事を嘆くだけでは、私達の心は晴れることがありません。

自分の事だけを心配していても、私達の心は晴れません。

周りの人のことを祈り・考える時間は、神様から高齢者に与えられた最高の贈り物なのです。

そうです、高齢者には、年々出来ない事がいろいろ増えてくるのですが、その事は、今までやれていた事で使っていた時間が空いてくると言うことでもあります。

その空いてきて生まれた時間を「やれることで」有効に使えるならば、高齢化は必ずしも敗北や悲しみを意味するものでは無くなってきます。

そのやれることとは、例えば頭を使うことかもしれませんし、他人への敬意や感謝を表現する事かもしれません。

あるいは苦しんでいる人々の苦しみを共有したり、その人たちのために祈る事も良いでしょう。

そのような事は、多くの人々に喜ばれるだけでなく、自分自身にとっても人々との繋がりを実感することになり、大きな「生きがい」になる可能性もあります。


私達は、「腹八分目」で身体的・物理的な健康を得られるだけで無く、このような「生きがい」によって心的・精神的な大きな喜びを分かち合う事にも繋がります。

これらの二つの言葉こそ神様からの贈り物でなないでしょうか!?


この二つの言葉はいずれも、外国語には無い日本語だけの言葉かもしれませんが、これからの私達が世界に発信して行くべき言葉かもしれません。


この投稿を最後までお読み頂き有り難うございました。
noteの場においてこのような文章をお読みくださった皆様に心から感謝申し上げます。

追記:
きっとnoteはパリのモンマルトルのような自由な発言の場になるのではないかと期待しています。
そうですバーチャル・モンマルトルになって欲しいと思います。
最後にnote創業の皆様に感謝すると共にエールを贈りたいと思います。

有難うnote のみなさん!!!





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